南史演義 巻5-6

 その冬、汝水(じょすい)は乾上がり、黄河は凍ったが、澠水(べんすい)は凍らなかった。燕王慕容超(ぼようちょう)は左右に問うた。「澠水はどうして凍らないのか?」右筆の李宣(りせん)は言った。「その川は京城を巡っており、日や月〔天子や皇后を指す〕に近いためでしょう。」慕容超は大いに喜び、彼に朝服一揃いを賜った。

  その頃、南郊において祭祀をおこなった時、一匹の獣が壇前に突進してきた。鼠のようで赤く、大きさは馬のようであり、人々は大いに驚いた。突然、大風が吹いて砂が舞い上がり、昼であるのに夜のように暗くなった。羽儀や帳などもみな裂けてしまった。慕容超は恐れ、太史令の成公綏(せいこうすい)に問うたところ、彼は「これは陛下が奸佞を信任され、刑罰や政治の過ちがこれらを引き起こしたのでしょう」と答えた。慕容超はそこで公孫五楼(こうそんごろう)を斥けた。しかし五楼はすぐに美女十名を献上した。みな南人で、歌舞に巧みなものであった。慕容超は大いに喜び、また前のように五楼を信任した。

 ある日、慕容超は朝廷に臨んで群臣に言った。「南人はみな音楽に長けておる。今、我が国には太楽が備わっていない。わしは南人を掠ってきてそれを補おうと思う。誰かこの任に堪える者はおるか?」群臣は誰も答えなかった。その中で斛穀提(こくこくてい)、公孫帰(こうそんき)進み出て言った。「どうか三千騎をお与えください。陛下のためにこれを掠め取ってきましょう。」

 慕容超は喜び、両者に東晋を攻めるよう命じた。斛穀提は宿予(しゅくよ)を攻めて城を落とし、多数の民衆を掠めて去っていった。また公孫帰は済南(せいなん)を攻め、千人余りを連れ去って献上した。慕容超はその中から男女二千五百人を選び、太楽について学ばせた。そして二人を重く賞した。


 一方この頃、劉裕はずっと精鋭を養っていたが、それは兵を起こして燕を伐とうと考えていたのである。そんな時、燕の侵略を聞いて大いに怒って言った。「今、兵を出しても無名の戦とは言われまい。」そして北伐を行う旨の上表文を奉った。朝議はみな不可としたが、ただ孟昶(もうちょう)、臧熹(ぞうき)らは必ず勝てるとして、強く劉裕に勧めた。そこで劉裕は孟昶を監中軍留府事として後を託し、そのまま建康を進発した。

 胡藩(こはん)を先鋒、王仲徳(おうちゅうとく)、劉敬宣(りゅうけいせん)を左右の翼とし、劉穆之(りゅうぼくし)を參謀として、劉裕は水軍三万を率いて淮水(わいすい)から泗水(しすい)に入り、五月に下邳(かひ)に至った。そこで艦船や軸重を後に留め、歩兵を率いて進軍した。要衝を通る際にはそこに城を築き、兵を留めてこれを守らせた。

 ある人が劉裕に言った。「燕人がもし大峴(だいけん)の険阻な地を要害とし、城壁を堅くして田野を空っぽにして待ちかまえていますと、我が軍がたとえ深く侵入しても、ただ功が無いだけでなく、帰ることもできなくなります。どうしましょう?」劉裕は言った。「私もそれを熟慮した。しかしかの主君も臣下もともに暗愚であり、遠計を知らない。軍を進める時には城を攻めて敵を捕らえることばかりを考え、兵を退いて守る時は穀物が消費されるのを惜しむ。我が軍が深く侵入してもやつらは持久戦はできぬ。せいぜい兵を進めて臨朐(りんく)に拠るか、退いて広固(こうこ)を守るだけだろう。田野を空っぽにして城壁を堅く守るような計を用いることなどあるまい。諸君のためにこれを保証しよう!」

 ところで慕容超は晋軍がやって来たことを聞いても、強さを自負して全く恐れる様子が無かった。群臣に言った。「晋兵がもしここまでやって来ても、ただ馬を返させぬだけだ。」段暉(だんき)は言った。「南軍は軽武装で果敢であり、速戦に利がありますので、ここは鋒を争うべきではありません。大峴を要害としてそこより入れないようにし、持久戦に持ち込んでその鋭気が萎えるのを待ちましょう。その後、精鋭三千騎を選んで海に沿って南下させ、その糧道を断つべきです。さらに一将に命じて袞州(えんしゅう)の兵を率いさせ、山東より下って腹背よりこれを撃つ、これが上策です。それぞれの拠点の守将に命じて固く守らせ、必要な兵糧を計算してその他はことごとく廃棄し、畑の苗をすべて刈り取れば、敵に与えるものも無くなります。彼らは兵糧も尽き、戦をしようとしてもできません。一か月ほど座したままで勝ちを得られましょう。これが中策です。敵に大峴を越えて入らせ、城を出て迎え撃つ。これは下策です。」