玉関にて長安の李主簿に寄す―岑参

今年もそろそろ終わります。そこでこの詩を一首。 
 玉関寄長安李主簿 玉関にて長安の李主簿に寄す  岑参
東去長安万里余  東のかた長安を去ること 万里余
故人那惜一行書  故人 那(なん)ぞ惜まん 一行の書
玉関西望腸堪断  玉関 西望すれば 腸 断つに堪えん
況復明朝是歳除  況んや復た明朝は 是れ歳除なるをや

 東のかた長安を去ること一万里余り。親しい友である君は、どうして一行の手紙をも惜しんで便りをくれないのか。玉門関から西を眺めると腸も断ち切れんばかり。まして明日は大晦日であるのでなおさらなのだ。

※[李主簿]岑参の友人と思われるが詳細は不明。「主簿」は官名。文書等を司る。 [歳除]大晦日
  

  「玉関」とは今の甘肅省敦煌の西にある玉門関のことで、唐代にはこの玉門関や陽関が西方の国境と認識されていました。よってそこから先は異国の地となるのですが、岑参はそれを越えてさらに先へ進まねばなりません。そのため自分がこれから向かう西の方を眺めやると、腸も断ち切れるように悲しみが沸き起こってくるのだと詠います。

 ましてや明日は大晦日。一年が終わろうとするこの時、本来は家族や親しい人々とともに過ごすべきであるのに、自分は一人異郷にある身。そのような状況が、彼の一層憂いをいや増すのでしょう。

 

菊花

 菊花   元稹
秋叢繞舎似陶家  秋叢 舎を繞(めぐ)りて 陶家に似たり
遍繞籬辺日漸斜  遍く籬辺を繞りて 日 漸(やうや)く斜めなり
不是花中偏愛菊  是れ 花中 偏(ひとへ)に菊を愛するにはあらず
此花開尽更無花  此の花 開き尽くせば更に花無ければなり

 秋の草が我が家にまとわりついて、まるで陶淵明の家のよう。垣根のあたりをあまねくめぐって、日は少しずつ傾いていく。花の中でただ菊だけを愛しているというわけではない。しかしこの花が開き散り尽くしてしまうともう花が無くなってしまうから(愛さずにはいられないのだ)。


 今年の秋も終わりということで、晩秋を象徴する菊の花を詠った詩です。
 秋の草がまとわりつく家を指して「陶家に似たり」と言いますが、やはり菊と言えば陶淵明を思い起こすためす。彼の「飲酒」詩にある「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」という句は唐代にも広く人口に膾炙していたのでしょう。

 また同じく菊を詠った詩をもう一首。

 菊花   白居易
一夜新霜著瓦軽  一夜 新霜 瓦に著(つ)きて軽し
芭蕉新折敗荷傾  芭蕉 新たに折れ 敗荷 傾く
耐寒唯有東籬菊  寒に耐うるは唯だ東籬の菊有るのみ
金粟花開暁更清  金粟 花 開きて 暁に更に清し


 ある夜、初霜が降りて瓦をうっすらと覆った。芭蕉は折れてしまい、破れた蓮の葉も傾いた。この寒さに耐えうるのは東の垣根の菊だけ。金の粒のような花が開き、朝の光を受けて一層清らかだ。


※[敗荷]破れた蓮。 [金粟]金のあわ。金の粒。

 

 この詩でも「東籬の菊」と言い、陶淵明をイメージしています。

 元稹は、この花が散ってしまうと他には花が無いと言い、白居易もやはり、他の花は全て散ってしまい、寒さに耐える花としては菊があるだけだと言っています。

 内容的にも共通点の多いこれらの詩ですが、元稹と白居易は親友ですので、あるいは酒宴のなどの場にあって、同じ詩題で作ったものかもしれません。

 晩秋に鮮やかに咲く菊の花は、一年の最後を飾るのものとして、特に中国の詩人には愛されていたのでしょう。

 

山行

 山行  杜牧
遠上寒山石径斜  遠く寒山に上れば石径斜めなり
白雲生処有人家  白雲 生ずる処 人家有り
停車坐愛楓林晩  車を停めて坐(そぞろ)に愛す 楓林の晩
霜葉紅於二月花  霜葉は二月の花よりも紅なり

 遠くもの寂しい山を登っていくと、石の小径が斜めに続いている。白雲が生ずるような奥深いところに人家があった。夕暮れに車を停めて何とはなしに楓の林を愛おしく眺めてみると、霜のおりた葉は二月の花よりも紅く染まっている。

※[寒山]もの寂しい山。人気の無い山。 [白雲生処]古来、雲は山の奥から湧き出るものと考えられていた。 [坐]そぞろに。何とはなしに。 [二月花]春の盛りに咲く花。桃の花など。
 

 

 杜牧を代表する詩の一つです。
 白雲とは古来、山の奥深いところから生ずるとされており、そのような場所に家を構えているのはおそらく隠者なのでしょう。すなわちそこは俗世から離れた別天地であると言えます。そこでふと夕日に照らされた楓林の美しさに気づき、たたずみ眺める杜牧の姿が浮かんできます。
 この詩は、「寒山」「石径」「白雲」といった寒色の風景から始まりますが、その中にあって最後に「霜葉は二月の花よりも紅なり」と結ぶことで、紅い楓の美しさが一層際立ちます。まさに杜牧の描写巧みさがうかがえる作品と言えるでしょう。
 
 

南史演義 巻6-8

 これより先、劉裕は兵を指揮して進み戦わせたが、持っていた旗竿が突然折れ、旗が水に沈んでしまった。兵はみな色を失った。しかし劉裕は笑って言った。「かつて覆舟山(ふくしゅうざん)の戦においても旗竿が折れ、今またそうなった。この賊は必ず平らげられよう。」

 ここにいたって果たして大勝利をおさめ、得られた士卒や兵糧は数えられないほどであった。諸将は本陣に入ってお祝いを述べた。劉裕は言った。「賊は敗れ去ったため、必ず番禺(ばんぐう)に還るであろう。この時、番禺はすでに孫処(そんしょ)らに押さえられていようが、そうなると彼らは孤軍無援となってしまい、賊を制するには不十分となる恐れがある。」そこで胡藩(こはん)、孟懐玉(もうかいぎょく)に命じ、軽軍五千を率いて追尾させ、残敵を掃討する任を与えた。

 ところで盧循(ろじゅん)と徐道覆(じょどうふく)は残兵を率い、夜陰に乗じて番禺に帰った。しかし彼らは知らなかったが、すでに孫処、沈田子(しんでんし)の二将が劉裕の命令を受け、十二月の初めに兵を率いて城を攻め、一族を滅ぼし、兵を整えて待っていたのである。盧循は道中にあって城がすでに失われているのを知らず、まっすぐ番禺に至り、慌ただしく兵を整えて入城しようとした。

 しかし城下に至ると、四方の門が堅く閉ざされ、城上にあまねく旌旗が立ち翻っているのを見た。一人の将が甲冑を身にまとい、城壁の上に立って大声で呼ばわった。「盧循、おまえの巣穴はすでに失われた。今さら来てどうするのだ?」盧循は大いに驚いて問うた。「おまえは何者だ。我が地を押さえたのか?」城上の将は答えて言った。「私は振武将軍孫処である。太尉〔劉裕〕の命を受け、おまえの巣穴を傾け、おまえの退路を断ったのだ。ここでまだお前は死活が分からないのか!」盧循は徐道覆を顧みて言った。「この城がもし失われたら、我らは身を寄せるところがない。どうすればよい?」徐道覆は言った。「事態は急でしたので、やつらは孤軍無援です。それに乗じて速やかにこれを攻めたてれば、きっと勝てるでしょう。」そこで賊兵を指揮し、四方から攻撃し、城中もまた四方に敵をを防いだ。

 対峙すること二十日あまり、城はしだいに支えきれなくなった。孫処は沈田子に言った。「援軍は至らず、矢も尽きようとしている。どうすればよいか?」沈田子は言った。「風を見るにすでに西北に転じています。三日と立たず、援軍は必ずやって来るでしょう。」

 ある日、たちまち城外で雷のような砲声を聞き、賊兵は散り散りとなって退いていった。遠く海の方を眺めると、官軍の旗を立てた一群の人馬があり、賊の陣に左右から攻めかかっており、賊兵も必死に戦っていた。

 沈田子は援軍が至ったことを知り、そのまま孫処を留めて城を守らせ、自ら兵を率いて進み出て戦った。両側から挟撃されて賊兵は大敗し、盧循は狼狽して逃げ去った。徐道覆は始興(しこう)に逃走しようとしたが、周りの兵が散じてしまい、ついに殺された。

 戦が終わって初めて、来援したのが胡藩、孟懐玉であると知り、再会を大いに喜んだ。沈田子は二将に城に入るよう勧めたが、胡藩は言った。「賊はまだ遠くに行っていない。これを追撃すれば捕らえられよう。君と孫将軍は周囲を鎮撫してくれ。私と孟将軍は賊徒を捕らえに行く。」話が終わると、手を取り合って別れた。

 ただ官軍が追撃しても、果たして賊徒を捕らえることができるかどうかは分からない。次回の講釈を待て。

 

南史演義 巻6-7

 さて、徐道覆(じょどうふく)は江陵に攻めていったが、江陵の守将劉道規(りゅうどうき)は、劉裕の弟である。初め賊が都に迫ったと聞くと、その将檀道済(たんどうせい)に兵三千を率いさせて救援に向かわせた。しかし尋陽(じんよう)まで至ると、賊将荀林(じゅんりん)に敗れ、兵を退いて還った。荀林はそのまま勝ちに乗じて江陵に攻めかかり、その兵勢は非常に盛んであった。

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