南史演義 巻5-3

 夏四月、劉裕は藩国に帰ることを願い出た。詔があり、改めて都督荊司等十六州諸軍事に任じられ、軍を率いて京口(けいこう)に還った。

 これより先、桓玄が禅譲を受けた際、王謐(おうひつ)は司徒となり、自ら安帝の玉璽を解いて桓玄に奉った。その王謐が揚州刺史を兼任することになると、諸臣はみな寛大に過ぎると思い、中でも劉毅(りゅうき)はもっとも不満を抱いていた。ある日、帝が朝堂にて宴を賜わることとなり、百官が参集したが、王謐は重鎮の大臣であるためその首座にすわった。劉毅は憤然と色をなして言った。「かつて逆賊桓玄が乱を起こし、天位もひとたび移ったが、今、幸いにも王室は復興した。我らはみな大晋の臣として逆賊の朝廷に拝跪しなかったことこそ、まさに大いなる栄誉であろう。」

  しかし劉毅は、劉裕が揚州刺史となると輔政に入ることになるため、それを望まず謝混(しゃこん)をこれに代えるよう朝廷で議した。そして尚書右丞皮沈(ひちん)京口に遣わし、劉裕にその旨を告げようとした。皮沈は先に劉穆之(りゅうぼくし)に会い、つぶさに朝議を述べた。穆之はわざと廁に行くふりをして、ひそかに劉裕に告げ、「皮沈の言葉には従うべきではありません」と述べた。劉裕は皮沈に面会した後、しばらく彼を下がらせ、劉穆之を呼んで先の言の意を問うた。

 劉穆之「晋朝は政を失い、桓玄の簒奪によってひとたび天命は移りました。明公(との)は皇祚を復興され、その勲功は非常に高く重いものとなっています。そのような状勢にありながら、どうして自ら譲られて守藩の将となられることがありましょう。劉毅、孟昶(もうちょう)らの諸卿が、公とともに布衣より起ち、ともに大義を立てたのは、主君を助けて勲功を挙げ、富貴を得たいがためです。前後の事情から一時的に明公を立ててはおりますが、決して心服しているわけではありません。もとより臣主の分はしっかりと定めるべきです。互いの勢力が等しければ、最後まで食らい合うようになりましょう。揚州は根本となるべきところで、人に与えるべきではありません。先には王謐に授けられましたが、それはあくまで暫定的な措置です。今もしまた他人に授けられれば、明公は人に制せられることになりましょう。一度権勢を失ってしまえば、もはや得るすべはありません。今、朝議が皮沈の言ったようになっているのであれば意見を述べることはできましょうが、たとえ私であってもうまく朝廷に説明することは難しいです。よってただ次のようにだけ言ってください。『揚州は治の根本であり、その宰領は枢要な職務である。このことは非常に重大な事案であるため、軽々しい議論をすべきではない。私もしばらく入朝し、ともに議論を尽くすとしよう。』そして明公が都に行かれれば、彼らは必ずや明公以外の余人にこれを授けようとはしますまい。」

 劉裕はこれに従い、皮沈を先に還らせ、自らは上表して入朝を請うた。朝廷はみなその意を悟り、即座に劉裕に領揚州刺史、禄尚書事を授けた。

 

 劉裕が建康に到着すると、百官はみな畏れ服した。ある日、劉裕は群臣を集めて議して言った。「古より内を治めた後に必ず外を征するという。かつて南燕(なんえん)後秦(こうしん)は、我らの内乱に乗じ、我が領土を侵略した。今、内乱は収まったにもかかわらず、南郷(なんきょう)等の諸郡はなお秦に押さえられ、宿予(しゅくよ)以北はなお燕に支配されている。私はこれらを討伐しようと思うが、二者のどちらを先にすべきか?」

 朱齢石(しゅれいせき)が進み出て言った。「後秦の姚興(ようこう)は非常に仁義を慕っておますので、礼をもって結べばその地はおのずと還ってきましょう。南燕は慕容徳(ぼようとく)の死後、子の慕容超(ぼようちょう)が継いでより、国内は日々乱れているため、一挙に滅ぼすこともできましょう。しかし今は兵力がまだ不足しておりますので、しばらく待つべきと存じます。」

 劉裕はこれに従い、使者を派遣して秦と修好し、かつ南郷等の諸郡を求め、秦王姚興はこれを許した。秦の群臣はみな不可としたが、姚興は言った。「天下の善は一つである。劉裕は微細より抜きん出て、桓玄を討伐し、晋室を復興した。内では政務を治め、外では境界を定めた。わずか数郡を惜しんで、その美徳を成就せしめないことがあろうか?」そこで南郷十二郡を割いて晋に帰せしめた。そして秦と晋は和好し、姚興の治世が終わるまで、劉裕が討伐することはなかった。