南史演義 巻5-7
段暉(だんき)の言に対して、慕容超(ぼようちょう)は言った。「卿の下策がすなわち上策だ。今、歳星は斉の方角にある。すなわち天道から推察すれば、戦わずとも勝ちは得られるはずだ。そして我が方と敵の状勢はそれぞれ異なるが、人事から言っても勝ちの状勢は我が方にある。今、我らは五州の地を支配し、数多の民を擁し、騎兵は万を数え、麦の穂は地を覆うほど豊かなのだ。どうして苗を刈り取って民を移住させ、自ら弱めるようなことをするのか。敵にほしいままに大峴(だいけん)に入らせて後、精鋭をもってこれを撃つべきである。どうして勝てないことなどを心配するのか?」
桂林王慕容鎮(ぼようちん)は言った。「陛下が騎兵で戦われるのであれば、平地でこそ利がありますので大峴を出て迎え撃つべきです。戦って勝てずとも、なお退いて守ることもできます。要害の地である大峴を自ら捨てて、敵を自由に出入りさせることはありません。」慕容超は従わなかった。慕容鎮は退出すると段暉に言った。「主上はこちらから出て敵を迎え撃つこともされず、また民を移して田野を空にすることにも同意されない。かの三国時代の劉璋(りゅうしょう)のようなものだ。今年のうちに国は滅び、私も死ぬであろう。」ある人が慕容超に告げたところ、彼は大いに怒り、慕容鎮を捕らえて獄に下した。
さて、晋軍が大峴を過ぎても、燕兵は出てこなかったため、劉裕は馬上で手を挙げて天を指し、喜びをあらわにした。左右の者は言った。「公はまだ敵を見ていないのに、どうしてそんなに喜ぶのですか?」劉裕は言った。「我が軍はすでに険阻を越え、兵士には決死の心があり、有り余る糧食は田野にあって欠乏の心配もない。すでに勝ちは我が掌中にあるのだ。」劉裕が東莞(とうかん)にいたると、慕容超は公孫五楼(こうそんごろう)、段暉に五万の歩兵騎兵を率いさせて臨朐(りんく)に駐屯させ、自らは四万を率いて後援となった。
劉裕は四千乗の戦車を翼のように広げ並べて進軍し、燕軍と臨朐の南で戦った。早朝から始まり日暮れにいたっても勝敗は決しなかった。胡藩(こはん)が劉裕に言った。「燕はかなりの兵を出して戦っていますので、おそらく臨朐の城中に守備兵は少ないと思われます。よって間道より奇兵を進ませて城を取りましょう。これこそ韓信が趙を破った策です。」劉裕はその計に従い、胡藩に兵五千を率いさせ、間道を通って燕軍の後背に出て臨朐に進攻させた。
晋兵は城下に迫ったが、城中には果たして備えがなかった。副将の向彌(しょうび)が甲冑をまとって真っ先に駆け上がり、大声で呼ばわった。「十万の兵が海道より迫ってくるぞ。」兵士も彼に従って城壁に上がった。そして守備兵は潰滅し、臨朐は陥落した。
その頃、燕軍は晋軍と交戦中であり、勝敗はまだ決していなかったが、臨朐がすでに失われたと聞くと燕兵は大いに動揺した。劉裕はその乱れに乗じて兵を率いて奮戦し、段暉及び十数人の大将を斬って大勝利をおさめた。慕容超は残兵を率いて広固(こうこ)に帰った。晋軍は追撃してまっすぐ広固城下に至り、その外城を破った。慕容超は小城に退いてそこに立てこもった。
劉裕はその城を囲むように防柵を築き上げた。その高さ三丈ほどあり、さらに塹壕を三重にも掘り巡らせた。慕容超は包囲の中にあって恐れ怯えるばかりで計も無く、尚書令張綱(ちょうこう)を秦に遣わして援軍を請うた。桂林王慕容鎮を獄より出して引見し、謝罪して敵を防ぐ策を問うた。
慕容鎮は言った。「人々の心は、ただ王によってこそ動くのです。今、陛下は自ら六軍を率いて出陣されましたが、敗れて還ってこられ、秦に救いを求められました。しかし頼ることができぬのではと恐れておられます。今、離散して還ってきた者はなお数万あります。彼らに金や絹を与え、重い恩賞を懸けて、更に晋と一戦を決しましょう。もし天命が我らを助けるのであれば、必ず敵を破ることができます。もし天運味方せず敗れて死んだとしても、また栄誉となります。門を閉じて終わりを待つのに比べて、どちらが良いでしょうか?」公孫五楼は言った。「晋兵は勝ちに乗じて気勢は百倍、我ら敗軍の兵でこれに当たっても勝ちは難しいでしょう。秦は我らと中原を分かちあった唇歯の間柄です。どうして救いに来ないことがありましょう?ただし大臣を遣わさなければ、強力な兵を得ることはできますまい。韓範(かんはん)はもとより秦で重んじられています。彼を遣わして援軍を求めましょう。」