南史演義 巻6-6

 劉裕は石頭城(せきとうじょう)に登ってこれを眺め、初め盧循(ろじゅん)の軍が新亭(しんてい)に向かうのを見ると、左右を顧みて色を失った。やがて蔡州(さいしゅう)にまわって停泊すると、そこで喜んだ。劉毅(りゅうき)は晋の南の辺地にわたってようやく助かることができたが、付き従う者は飢え疲れ、十のうち七、八人まで死んでしまった。十日でようやく建康にたどり着き罪を待った。劉裕は彼を慰め励まし、知中外留事とした。


  丙寅、劉裕は沈林子(しんりんし)、徐赤特(じょせきとく)に命じて南岸に寨(とりで)を築かせ、査浦(さほ)の路を絶ち、堅く守って動かないよう命じた。そして自らは諸将をひきいて、南塘に陣営を築き、遠く犄角(きかく)の構えを敷いた。慮循は兵をひきいて岸に上がり、査浦に進攻した。徐赤特はその兵が少ないのを見てこれを攻撃しようとしたが、沈林子は言った。「これは我らを誘っているのだ。必ず後続がある。撃つべきではない。」しかし徐赤特は従わず、そのまま出戦した。後続の大軍が至り、徐赤特は戦死した。沈林子は柵に立てこもって力戦したが、敵勢は強く支えきれないほどであった。劉裕は朱齢石(しゅれいせき)に命じて急いで救援に向かわせ、そのため柵は破られなかった。

 賊は三日間攻め続けたが、沈林子は堅く守って出なかった。劉裕は諸将に言った。「賊は査浦を攻めるばかりで我らに兵を向けないのは、我らの備えを怠らせようとしているのだ。今夜は月もなく、かつ妖婦がやつらについておるから、必ず我が陣に攻め寄せてこよう。これを防がねばなるまい。」そして陣営の前に深い塹壕を掘らせ、上に木の板を敷き、土砂でこれを覆い、両側に大弩百張を設け、四面に兵を伏せた。そして陣営で号砲が響くのを待って一斉に攻めかかるように諸将に命じた。

 さて盧循はこの夜、幻術を用いるのにちょうどよい闇夜であったため、妻の羅氏(らし)に本陣を攻めさせようとしていた。徐道覆(じょどうふく)は言った。「劉裕は狡猾なやつで、本陣に備えが無いはずがありません。査浦の小寨を攻め続けるのが良いでしょう。必ず勝てます。」盧循「我らが連日もっぱら小寨を攻めていたのは、まさに今夜、策を用いるためである。君はどうしてためらうのか?」羅氏「私には神兵の助けがある。千人もあれば敵の本陣を破るに十分である。君らは後援となり、私が勝ちを収めるのを待って、さらに四方から撃ちかかれば良い。」盧循は大いに喜んだ。

 夜が更けるのを待ち、羅氏は兵を率いて出陣した。敵陣に近づいた時、馬上で幻術を用いると、大いに狂風が起こり、黒い霧が天を覆い、空中に数千数万もの人馬が現れた。しかし陣営の前まで至ると、たちまち天が崩れ地が裂けたような音がして、前方の人馬が塹壕の中に陥ってしまった。羅氏は馬を押さえようとしたがかなわず、つまづいてその中に落ちてしまった。陣営から号砲があがり、両側から一斉に弓弩が放たれて雨のように降りそそぎ、羅氏は全身に矢を受けて死んでしまった。

 伏兵が四方から起こり、火が放たれて明るくなると、盧循は兵を率いて後方にあったが、敵の計略にかかったことを知り、ただ退いて船に還ることができただけであった。調べてみると先鋒の一千の兵馬はみな殺され、また愛妻を失ったことで哀しみに堪えず、徐道覆に言った。「私はここに留まることはできない。しばらく尋陽にかえって再起を図ろう。おぬしは一軍を率いて江陵を押さえてくれ。」徐道覆はこれに従い、そのまま范崇民(はんそうみん)に五千の兵を率いさせてしんがりとし、大軍はことごとく退いた。


 諸将は盧循の兵が退いたのを見ると、劉裕にこれを追撃するよう請うた。しかし劉裕は応じず、大いに水軍を整えて、孫処(そんしょ)、沈田子(しんでんし)の二将に命じて、兵三千を率いさせ、海路から敵の本拠番禺(ばんぐう)を攻めさせた。人々はみな、海路は遠く険しく至るのも難しく、また敵の力は分散されているため目前の急ではないと言った。それに対して劉裕は言った。「十二月にはきっと妖賊は破れよう。その時に備えて先にその巣穴を傾けておけば、彼らは還るところも無くなり、一族ことごとく滅ぼすことができる。それを逃してしまうと後日の憂を残すことになる。諸君はそのような事態まで見ていない。」人々は皆その賢察を称えた。