南史演義 巻6-3

 江州にあった何無忌(かむき)は賊徒の報告を受けて激怒した。「やつらは朝廷に人がいないと侮っているのか?」そして尋陽(じんよう)から軍を起こしてこれを撃とうとした。長史の鄧潜之(とうせんし)は諫めて言った。「聞くところ賊兵は非常に盛んで、また上流に居りますので、これを迎え撃って戦うには不利です。今は城壁を堅く守って待つべきです。そうすれば彼らは我らを捨てて遠く下っていきましょう。力を蓄えて鋭気を養い、相手が疲労するのを待って、その後に攻めかかるのです。これが万全の策です。」

  参軍の劉闡(りゅうせん)もまた諫めた。「盧循(ろじゅん)が率いる兵はみな三呉の旧賊で百戦錬磨、始興(しこう)の徐道覆(じょどうふく)の兵も敏捷で良く戦います。さらに妖婦がこれを補佐しています。軽んじてはなりません。将軍は豫章(よしょう)に駐屯し城にて兵を集め、十分に兵が集まってから合戦に及んでもまだ遅くはありません。もし今のこの兵だけで軽々しく進むと、必ず悔いを残すことになるでしょう。」何無忌は聴かなかった。

 三月壬申、何無忌らは賊軍と豫章で激突した。合戦が始まると大風がにわかに起こり、砂を吹き上げ日を覆い隠した。官軍の艦船は、みな風や波のために大いに動揺し、制御しようとしてもできなかった。何無忌が乗った大船は東岸に漂泊し、賊軍の船は風に乗って迫り、矢が盛んに放たれた。

 何無忌は事態の急なるを見て、大声で叫んだ。「我が蘇武(そぶ)の旗を取ってこい!」漢の蘇武は匈奴に使者として赴き、彼の地に囚われの身となった時、漢より使者に任命された証である旗を常に手にしていたという。このとき何無忌は江州刺史・都督江荊二州等諸軍事に任じられており、その証である旗を「蘇武の旗」と言ったのである。その旗が持ってこられると、これを揮って督戦した。賊兵は雲のごとくあつまり、何無忌の左右の者もみな力尽きたが、何無忌は全く屈する様子もなく、旗を握ったまま死んだ。

 ここにおいて天下は大いに震動し、廷臣たちもはみな恐れおののき、詔によって急ぎ劉裕に国に還るよう命じた。

 この時、南燕はすでに降っており、劉裕はちょうど広固(こうこ)に駐屯していた。彼は降伏してきた者を受け入れ、民衆を慰撫し、賢才を抜擢するなどして三斉の地を治めていた。そこにたちまち詔があった。海賊が内地を侵略し、官軍はしばしば敗れているため、速やかに還るべしとのことである。

 劉裕は大いに驚き、韓範(かんはん)を都督八郡諸軍事として広固を守らせ、軍は南へと転じた。下邳(かひ)に至ると船に輜重を載せ、自らは先に精鋭を率いて徒歩にて還った。山陽に至ると、知らせはますます急の事態を告げるものとなった。劉裕は都が失われることを心配し、武装を軽くして昼夜兼行し、淮水(わいすい)のほとりに至った。

 そこで会った旅人に朝廷の消息を問うと、旅人は言った。「賊はまだ建康に至っておりません。劉公がもし帰還されれば憂いはなくなりましょう。」これを聞いて劉裕は少し安心した。

 淮水を渡ろうとすると、大風が吹き起こり、山のように波が湧き立ち、船は進むこともできなくなった。左右の者は風が止むのを待つことを勧めたが、劉裕は言った。「もし天命が国を助けるのであれば、風はおのずと止むはずである。もしそうでなければ船が転覆して溺れたとしても仕方のないことである。」そこで船に乗って出航しようとすると風は止んだ。そのまま淮水を渡って京口(けいこう)に至ると、それを見た人々は地に額ずいて喜び称えた。

 劉裕が入朝すると、群臣はみなやって来て計を問うた。劉裕は言った。「今日は守るのが上策であり、戦うのはその次である。驚きおびえてはならぬ。動揺してはならぬ。進退はただ我が命にのみ従うこと。諸君はこのことを守っていれば良い。」この時、諸葛長民(しょかつちょうみん)、劉藩(りゅうはん)、劉道規(りゅうどうき)らは各おの兵を率いて建康に入っていたが、劉裕は兵を厳しく統率して、守りを固めた。