南史演義 巻6-5

 この時、劉裕の軍は北から帰還したばかりで、将兵には傷病者も多く、健康な兵は一万にも満たなかった。劉毅(りゅうき)が敗れた後、賊の勢力はますます盛んになり、その兵は十万余、舟や車は百里にわたって絶えず、楼船の高さは十二丈もあった。賊に敗れて還ってきた者は盛んにその強さを言い立てた。都の人々は恐れ、防ぎきれないのではと皆が憂慮した。孟昶(もうちょう)は、天子を奉じて長江を渡って逃れようとしたが、劉裕は許さなかった。

  これより先、孟昶は何無忌(かむき)、劉毅の兵は必ず敗れると考えており、結果その通りとなった。ここに至って、劉裕もまた盧循(ろじゅん)に抗うことはできぬだろうと言い、人々はみなこれを信じた。王仲徳(おうちゅうとく)劉裕に言った。「孟昶の言はいたずらに人心を惑わすだけです。公はその雄才をもって天子の補弼となられ、新たに大功を立てられ、その威は天下を震わすほどです。妖賊が公の不在に乗じて乱を起こしたとしても、すでに凱旋されたと聞けば、自ずと崩れて奔走するでしょう。にもかかわらずもし先にお逃げになるなら、匹夫と同じです。どうして天下に号令できましょうや?その策を取られるのであれば、私はこれより辞去したいと存じます。」劉裕「卿の意はまさにわしと同じである。」

 孟昶は都を出て難を避けるよう固く請うた。劉裕「今、国家の重鎮〔何無忌、劉毅〕が外で敗れ、強大な賊は都に迫り、人々は恐れおののき、強固な志を持つ者も少ない。もし一度都から動いてしまえば、すなわち土が崩れるようなものとなり、江北へもどうして至ることができよう?もし至ることができたとしても、日月を伸ばしたに過ぎぬ。将兵は少ないとはいえ、一戦するには足る。もし勝ちを収めることができれば、君臣で幸いをともにしよう。もし厄運が至るようなら、私は屍を廟門に横たえ、この身を国家に捧げる志を遂げるだけだ。草間に隠れてかりそめに生を求めることなどできぬ。我が計は決まった。卿はもう言うな。」

 孟昶は自らの言が行われないことに怒り、また必ず敗れると考え、固く死を請うた。劉裕は怒って言った。「まずは一戦したうえで死んでも遅くはあるまい!」孟昶は進言が用いられないことを知り、そこで天子に上表文を奉って言った。「臣劉裕が北伐しました時、人々はみなそれに同意されませんでした。ただ私一人がその行為に賛同いたしましたが、そのため強賊にその間隙に乗じられ、社稷が傾こうとしています。これは私の罪です。謹んで咎めを受けて天下に謝罪したく存じます。」そして薬を仰いで死んだ。後の人が詩を作って彼をそしって言った。

 持乱扶危仗有人   乱を持し危を扶(たす)くるは人有るに仗る
 将軍何自遽亡身   将軍 何ぞ自ら遽(にわ)かに身を亡ぼさん
 寄奴当日従君計   寄奴(きど) 当日 君の計に従はば
 晋室江山化作塵   晋室江山 化して塵と作(な)らん


 劉裕は孟昶の死を聞くと、人心の不安を慮り、自ら石頭城に駐屯し、諸将に命じて各要所を守らせた。劉裕の子劉義隆(りゅうぎりゅう)は四歳になったばかりであったが、劉粹(りゅうすい)に補佐させ、京口(けいこう)に駐屯させた。劉裕は民が水辺で賊を眺めているのを見、これを怪しんで、参軍の張邵(ちょうしょう)に問うた。張邵は言った。「もし公の軍がまだ帰っていなければ、民は逃げ惑うばかりで観望する余裕などありません。しかし公が帰られたため、彼らはもう賊を恐れていないのです。」劉裕はこれに納得した。

 その頃、賊の知らせはますます急を告げるようになった。劉裕は諸将に言った。「賊がもし新亭(しんてい)からまっすぐ進んでくれば、その鋭鋒に当たることはできず、しばらくはそれを避けざるを得ない。すると勝敗も量りかねる。しかしもし西岸に回ってそこに停泊すれば、これはたやすく虜とすることができよう。」人々はみなその理由が分からなかった。

 盧循の兵が淮口(わいこう)に至ると、徐道覆(じょどうふく)は新亭からまっすぐ白石(はくせき)に進むようを請うた。そして舟を焼いて陸に上がり、数道に分かれて攻めれば、劉裕の軍は必ず敗れると言う。しかし盧循は万全の計を求め、徐道覆に言った。「敵の大軍はまだ到着しておらず、孟昶は我らの威風を見て自決した。大勢から言えば、奴らが潰乱するのも時間の問題だ。今、一気に勝敗を決するのは、必ず勝てる道ではなく、またいたずらに士卒を傷つける。兵を押さえて待つのが良かろう。」徐道覆は退き嘆いて言った。「盧公は疑いが多く決断力はない。私は最後に誤った。もし英雄のため私に自由に力を発揮させてもらえれば、天下を定めるのもたやすいことであるののに。」