易水送別

 易水送別  駱賓王

此地別燕丹   此の地 燕丹に別れ
壮士髪衝冠   壮士 髪 冠を衝(つ)
昔時人已没   昔時 人 已に没し
今日水猶寒   今日 水 猶ほ寒し


 この地はかつて荊軻が燕の太子丹と別れたところだ。当時の壮士たちは、髪が冠を突き上げるほど悲憤慷慨していた。その昔の人々はすでにみな亡くなり、今日、川の水だけが昔のまま冷たく流れている。


 この詩の作者駱賓王(らくひんおう)は、初唐の四桀(王勃、楊炯、盧照鄰、駱賓王)の一人です。高宗、則天武后の時、しばしば上疏直言するのですが、受け入れられず左遷され、ついには官を捨ててしまいます。そして684年、徐敬業の乱(則天武后打倒のため挙兵)に際してその幕僚となり、武后の罪を糾弾する檄文を書き、その素晴らしさは当の武后さえも感嘆させたと言います。徐敬業の敗死後、その行方は知られません。

 優れた才を持ちながら不遇に終わった詩人駱賓王。ここに挙げた詩は、その彼の代表作とも言えるものです。


 「易水」とは河北省を流れる川の名で、戦国時代、燕の太子丹が荊軻を見送った場所として知られます。『史記荊軻列伝によると、戦国時代の末(前三世紀)、秦の攻勢に苦しんでいた燕では、太子丹が荊軻という侠客に秦王政の暗殺を依頼し、その出立をこの易水のほとりで見送ったと言います。
 その時、荊軻は次の歌をうたいました。

     風蕭蕭兮易水寒  風 蕭蕭として 易水 寒し
     壮士一去不復還  壮士 一たび去りて 復た還らず
   
   その場に居た人々はみな目を怒らし、「髪 尽く上りて冠を指す」ほど感情を昂ぶらせていました。そして荊軻は車に乗って去ってきます。

 結果として荊軻は秦王暗殺に失敗して殺され、歌のとおり帰ってくることはありませんでした。

 

 この詩はこのような荊軻の故事を踏まえていますが、あるいは身を捨てて義に殉じた荊軻の姿に自分自身を重ね合わせたのでしょうか。

 人為の移ろいやすさ、あるいは人間のはかなさと、変わることのない自然とを対比して描き、それにより時の流れの無常を感じさせるものとなっています。