春風―白居易
春風 白居易
春風先発苑中梅 春風 先に発(ひら)く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開 桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏 薺花(せいか) 楡莢(ゆきょう) 深村の裏(うち)
亦道春風為我来 亦(ま)た道(い)ふ 春風 我が為に来たると
春風はまず御苑の中の梅を咲かせ、その後、桜、杏、桃、梨の花を次々と開かせていく。一方、ナズナの花、楡のサヤが開く奥深い村では、春風が我々のために吹いてくれたと村人たちは喜んでいる。
※[苑中梅]宮中の御苑の梅。 [桜杏桃梨]いずれも御苑の中の花。 [薺花楡莢]ナズナの花に楡のサヤ。村里に生えるもの。
春の風と言えば、東から吹いてきて万物をはぐくむ風として知られています。
日本では菅原道真の「東風(こち)吹かば にほいをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな」という短歌が有名ですね。
さて、この白居易の詩では春の花を開かせる風が描かれます。やはり万花に先駆けて咲く梅の花が最初に挙げられ、その後で桜、杏、桃、梨が次々と咲いていきます。これらはいずれも宮中の御苑にある花です。
その後、ナズナや楡など村里の野草を開かせる風が描かれますが、これは宮中であろうと村里であろうと、どこでも春風は平等に吹いてくることを詠っているのです。そして村里の人々は、他でもない、自分たちのために春風が吹いてくれたと喜びあっています。
春風が吹くのを喜ぶ気持ちがよく伝わってくる詩だと思います。
一枝の春
三月になり春めいてきました。
そこでこのような詩を。
贈范曄 范曄(はんよう)に贈る
陸凱(りくがい)
折花逢駅使 花を折りて駅使に逢ふ
寄与隴頭人 隴頭(ろうとう)の人に寄与せん
江南無所有 江南に有る所無し
聊贈一枝春 聊(いささ)か一枝(いっし)の春を贈らん
君のもとへ行く使者に逢い、花を折ってあずけた。隴頭の人に渡してほしいと。ここ江南の地には何もないが、とりあえず一枝の春を贈りたい。
※[范曄]398~445。字は蔚宗。南朝・宋の文人、歴史家。『後漢書』の著者として知られる。 [駅使]駅馬を使う公的な使者。 [隴頭]隴山のあたり。もとは西域の地名であるが、ここでは范曄のいる長安を指す。
作者は南朝・宋の陸凱という人物ですが、詳細については全く不明で、この詩だけで名が残っている人です。北方の長安にいる友人の范曄のもとに、何か贈り物をしたいが、このあたりには何もない。そこで梅の花を手折って、この詩とともに贈ったとされます。梅の花を指して「一枝の春」とは、なかなか洒落た表現だと思います。
梅の花は春に先駆けて咲く花として知られます。春まだき北方の地にいる友人に対して、一足先にこの地に咲いた梅の花を、「一枝の春」として贈る陸凱の思いやりが感じられるでしょう。
玉階怨―李白
玉階怨 李白
玉階生白露 玉階に白露生じ
夜久侵羅襪 夜 久しくして 羅襪(らべつ)を侵す
却下水精簾 却(かえ)つて下ろす 水精の簾(すだれ)
玲瓏望秋月 玲瓏(れいろう) 秋月を望む
宮殿の玉の階(きざはし)に白露が降り、夜が更けて薄絹の靴下の中まで冷たさが染み渡ります。もう水晶の簾は下ろしましょう。そして簾ごしに冷たく輝く秋の月を眺めています。※[侵]夜露がしみとおる。 [羅襪]薄絹の靴下。 [水精]水晶。 [玲瓏]冷たくさえて輝くさま。
先日は謝朓の「玉階怨」を紹介しましたが、今回は李白の「玉階怨」です。
謝朓の作と同様、男性の訪れを待つ宮女の様子が描かれます。
第一句は宮女のいる場面の情景ですが、「玉階」「白露」の語を用いることで、女性がいる場所の清らかさ、冷たさを際だたせています。そして夜が更けるまで待ち続けた女性の靴下の中にまで冷たさが染み渡るのですが、女性の靴下を指す「羅韈」という語は非常に艶めかしさを感じさせます。一説に夜露によって靴下が濡れるとも解されます。
第三句の「却下」の二字は、「却下す」と読み、単に下ろすの意で解されることも多いのですが、この「却」は、漢詩漢文においては「かえって」と読んで副詞的に使われるのが一般的です。よってここでは気持ちとは相反する行動であることを示しているのではないでしょうか。すると相手を待ち続けたいのを振り切って、という思いが込められていることになります。
そして最後にすだれ越しに玲瓏たる月を眺めるのです。この「玲瓏」とは、そもそも玉の触れあう音を言い、そこから派生して、玉のように冷たく冴え冴えとした、また硬いものを表す語として用いられます。よってこの秋の月は、冷たく冴えた硬質な月という印象を与え、女性の寂しい心情をより引き立てるのです。
この詩には全体を通して「玉階」「白露」「羅韈」「水精」「玲瓏」といった語がちりばめられ、白く冷たく清らかで透明感のある雰囲気が醸し出されています。しかしこの中に女性の心情は一切描かれていません。それが読む者にさまざまな想像をかき立てることになるのです。
謝朓の作と比較してもそれぞれ深い味わいがあり、どちらも閨怨詩の傑作と言っていいでしょう。