玉階怨―謝朓

  玉階怨   謝朓(しゃちょう)
夕殿下珠簾   夕殿(せきでん) 珠簾を下ろし
流蛍飛復息   流蛍 飛びて復た息ふ
長夜縫羅衣   長夜 羅衣を縫ひ
思君此何極   君を思ふこと此(ここ)に何ぞ極まらん

 

 夕方の宮殿では珠のすだれが下ろされ、流れていく蛍が飛んではまた休んでいる。長いこの夜に私は薄絹の衣を縫いながら、あなたへの思いがどうして尽きることがありましょうか。

 

※[玉階]玉で作られた階(きざはし)。その上に宮女がおり、男性の訪れを待っている。 [羅衣]薄絹の衣。 

 

 以前取り上げた何遜(かそん)と同様に唐詩の先駆の一人とされる詩人を挙げます。
 作者謝朓は、字は玄暉、六朝・南斉の詩人です。名門貴族の出身で、五言詩に優れ、同時代の人々にも非常に高く評価されましたが、最後は政争に巻き込まれ獄死します。その詩は後世にも大きな影響を与え、精巧で繊細優美なその詩風は、とりわけ唐の李白に敬慕されました。

 これはいわゆる閨怨詩ですが、「玉階」「夕殿」という語から宮中の女性を連想させます。多くは語られませんが、おそらく主君の寵愛を失った女性ででしょう。日が暮れた宮殿で独り過ごす女性、その前を一匹の蛍が弱々しく飛んでいきます。それは女性自身の姿でもあります。その蛍のはかなさと対比することで、三、四句の相手を思い続ける夜の長さが際立つのです。

 五言四句という短い詩の中で、蛍のはかなさ、女性の憂い、男への尽きぬ思いを、静かな夜の中に見事に描き出した六朝絶句の最傑作とも言われます。

 

己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ

論語』学而篇

子貢問ひて曰く、「一言にして以て終身 之(これ)を行ふべき者有るか」と。子曰く、「其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」と。

(子貢が尋ねて言った。「一言で一生行っていくべきことがありましょうか。」孔子は言われた。「それは恕だね。自分が望まないことは、人にもしないことだ。」)

 

 孔子は弟子の子貢の問いに対し、一言で一生行って行くべきことは「恕」であると答えます。「恕」は、日本語ではしばしば「思いやり」と訳されますが、孔子はさらにその「恕」を具体的に説明し、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」ということだ言います。

 この文は一見すると否定が二つも入っており、いささか消極的な印象を受けますが、「己の欲する所、人に施せ」(自分が望むことは、人にも施しなさい)ではない点が重要だと思います。

 自分がして欲しいことは人にも施す。

 積極的に人のために行動する、一見、良いことのようにも思えますが、そこには大きな落とし穴があります。

 「自分が望むこと」イコール「人が望むこと」ではないからです。

 つまり「己の欲する所、人に施せ」となると、人の立場に立つという視点が抜けているのです。

 すなわち孔子は、「恕」で最も大切なのは、常に相手の立場に立つということだと考え、上記のように述べたのです。

 

 一生行っていくべきこととして、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」とは、まさに至言と言って良いと思います。

 

 

 

相送―何遜

  相送  何遜(かそん)
客心已百念   客心 已(すで)に百念
孤遊重千里   孤遊 千里を重ぬ
江暗雨欲来   江 暗くして 雨 来たらんと欲し
浪白風初起   浪 白くして 風 初めて起こる

 

 異郷にある身の心にはさまざまな思いが湧き起こってくる。私はただ一人これからまた千里の旅に出ようとしている。川の上は暗くなって今にも雨が降りそう。そして白い波が立って風が起こり始めている。

※[客心]異郷にある心。故郷を思う心。 [百念]さまざまな思い。 [重千里]さらに千里の旅を重ねる。千里の旅に出る。 [初]~しはじめる。~しようとする。

 

 この詩の作者何遜は、字は仲言、六朝・梁の詩人です。幼い頃より詩文に優れ、沈約(しんやく)・范雲(はんうん)といった当時の文壇の重鎮たちから高く評価されていました。しかし時の皇帝、梁の武帝の不興を買って中央から退けられ、地方官のまま一生を終えます。現在ではそれほどその名は知られていませんが、美しい自然描写と豊かな抒情性を備えており、唐詩の先駆の一人とされ、杜甫が敬愛した詩人でもありました。

 

 詩題の「相送」とは、人を見送るという意味ですが、この詩は見送られる立場から詠われています。何遜が相手の立場に立って詠ったという解釈と、何遜自身が見送られる立場であったという解釈とがあります。

 そして印象深いのが後半に描かれる風景描写です。今にも雨が降り、風が起ころうとする様子は、実際目にした風景というより心象風景と言って良いでしょう。旅人のこれからの不安を暗示させるものであり、情と景を融合したその巧みな表現力は、唐詩と比べても遜色ないものと言えます。

 

 

南史演義 巻3-8

 一方、劉牢之(りゅうろうし)は兵を退いて以降、人心を大いに失い、威望も激しくそこなわれ、心中非常に悔いていた。そしてある日、劉牢之を会稽内史に任ずる詔が下ると、彼は大いに懼れた。「こうなっては我が兵が奪われてしまう。禍が迫ってきた!」この時、劉敬宣(りゅうけいせん)は京にあったが、桓玄は劉牢之が命を受けないことを恐れ、彼を帰して諭させた。敬宣は帰って父に言った。「桓玄は測ることのできぬ大きな志を抱いています。父上の功名を深く憎んでおり、決して容れられることはありません。どういたしましょうか。」劉牢之「私は自身の愚の報いを受けた。今はとりあえず江北に行き、そこで事を謀ろうと思う。おまえは京口に行って、すみやかに一族を連れて来い。」敬宣は命を受けて去った。

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南史演義 巻3-7

 この時、桓玄(かんげん)はしばしば勝利を収めていたとはいえ、やはり劉牢之(りゅうろうし)を恐れ、あえてすぐに都の門を犯そうとはしなかった。卞范之(べんはんし)が言った。「劉牢之が強兵数万を擁しながら、溧州(りつしゅう)に軍をとどめ、徘徊して進もうとしないところを見ますに、必ず司馬元顕(しばげんけん)に対して二心を抱いています。もし礼を低くして厚く贈り物をし、これと手を結べば、元顕の首を取ること塵芥(ちりあくた)を拾うようなものです。」

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