南史演義 巻3-4

 しかし楊佺期(ようせんき)が江陵に至ると、殷仲堪(いんちゅうかん)のもとには援軍をねぎらう酒食などもなく、ただ麦を軍に支給しているだけであった。楊佺期は大いに怒って言った。「殷侯はわしを誤らせた。今ここで敗れるだろう!」そのまま仲堪の方を見ず、にわかに甲冑を着て馬に乗り、城から討って出た。

  桓玄(かんげん)の部将郭銓(かくせん)が馬を走らせて迎え撃ったが、とても楊佺期の相手にはならず、数合戦っただけで敗走した。桓玄はその武勇を怖れ、軍を馬頭(ばとう)まで退かせ、守りを固めて出ようとしなかった。

 桓謙(かんけん)、桓振(かんしん)が進み出て言った。「楊佺期の軍は食糧が無いことを憂えています。もし襄陽(じょうよう)から兵糧を運び入れてその窮乏を救うことになれば、勝敗はどうなるか分かりません。どうか精鋭三千をお与えください。兵を分けて左右に伏せますので、一度戦った後、主軍は偽って退いてください。楊佺期は勇はあっても謀は無いので、必ず長駆してまっすぐ追撃してきます。我らがその横から挟み撃ちにすれば、彼の軍は必ず敗れましょう。楊佺期の首を麾下にさらしてごらんにみせます。」

 桓玄はこれに従い、そのまま進撃して一度兵を交えた後、すぐに退いた。楊佺期は敵が敗走したと思い、兵を率いてまっすぐ追撃してきた。すると左右の伏兵が一斉に立ち上がって挟撃し、桓玄もまた軍を返して戦ったため、襄陽軍は大敗してしまった。楊佺期は不利な情勢を見ると、道をかき分けて包囲を脱出しようとした。しかし桓謙の放った矢が彼の馬に当たって倒れ、投げ出された楊佺期もついに桓謙に殺されてしまった。その兄楊広(ようこう)は単騎で襄陽に逃げ帰った。

 殷仲堪は楊佺期の死を聞くと、大いに恐れ、数百人を率いて城をすてて敗走した。しかし桓玄の部将馮該(ふうがい)がこれを追撃し、多くの兵が殺された。

 これより先、殷仲堪が城を捨てて脱出しようした際、文武の官吏はだれも彼について行こうとせず、ただ羅企生(らきせい)のみが仲堪に従っていった。道中、羅家の門の前を過ぎると、弟の遵生(じゅんせい)がこれを迎えて言った。「今ここで別れようというのに、手を握ろうともしないのですか。」企生は馬を返してその手を取った。遵生には力があり、手を強く引いて企生を無理やり馬から下ろして言った。「家に老母があるのに、どこに行こうというのですか。」企生は涙をふるって言った。「今日の事が起こってしまった以上、私は必ず死ぬだろう。お前たちよく母を養い、子としての道を失うなよ。一門のうちに、忠と孝とがあれば、何を恨むことがあろうか。」遵生は企生を思い切り抱きしめた。

 殷仲堪は道ばたで彼を待っていたが、企生が遠くから大声で言った。「生と死とは同じようなもの。どうか今しばらくお待ちください。」殷仲堪は企生に脱出する気持ちが無いと見て、馬にむち打って去った。

 桓玄は荊州に入ると、殷仲堪の一族を誅殺した。士大夫はその威を畏れ、みな彼のもとにやってきた。しかし羅企生のみ独り行かず、仲堪の一族を葬った。桓玄は使者を遣わして言った。「私に謝罪するのであれば、おまえを許してやろう。」企生は言った。「私は荊州の吏である。荊州が敗れ、これを救うことはできなかった。今死んでも遅すぎるくらいなのに、どうして謝罪などしようか。」桓玄はそこで彼を捕らえた。処刑にあたって企生を前に引き立てて言った。「わしのお前への待遇は決して薄くはなかったはず。どうして背いたのじゃ。今、死ぬ前に言いたいことがあるか?」

 企生は言った。「使君〔桓玄を指す〕らが晋陽(しんよう)の戦を起こされた時、殷、楊、桓の軍は尋陽(じんよう)に会して、ともに王命を奉じ、それぞれ鎮所に帰還いたしました。壇にのぼり血をすすって誓いを述べたのに、その血もまだ乾かぬうちに、互いに滅ぼし合うこととなりました。私の力が及ばず、主君の危機を救うことができなかったのが無念です。私は殷侯に背いたのであり、使君に背いたのではありません。ただかつて晋の文帝は稽康(けいこう)を殺しましたが、その子稽紹(けいしょう)は赦され晋の忠臣となりました。どうか公には我が弟が老母を養うことをお許しください。これ以上、何も言うことはありません。」そこで桓玄は彼を殺したが、その弟は赦してやった。