張飛―愛すべきトラブルメーカー

 久しぶりの『三国志』について。
 小説『三国志演義』の主人公といえば劉備関羽張飛の三兄弟で、それぞれのキャラクターも確立しています。情け深く仁徳の人である劉備、義に厚く知勇に優れた名将関羽、そして乱暴者のトラブルメーカー張飛です。

 今回、この張飛について少し書いてみたいと思います。

  張飛の乱暴ぶりは第1回から早々に発揮されます。劉備の師盧植(ろしょく)のもとで黄巾の乱討伐に加わっていた三兄弟ですが、その盧植が無実の罪を着せられ捕らえられてしまいます。それに激怒した張飛は、護衛の兵士を斬り殺し、盧植の入れられた檻を破って救い出そうとし、劉備に止められます。

 さらに第1回の終わりから第2回にかけて、董卓(とうたく)との諍いがあります。劉備らは黄巾賊に苦しめられていた董卓軍を救いますが、董卓劉備が無位無官であることを侮り、ろくに挨拶もしないという無礼な態度を取ります。張飛はこれに激怒して董卓を殺そうとし、それを劉備関羽がどうにかなだめます。なおこの董卓は後に都に入って暴虐の限りを尽くしたため、討伐のために諸侯連合軍が結成され、劉備らもそこに加わりますが、その際、張飛があの時殺しておけば良かったのにと愚痴をこぼす場面もあります。


 このように最初から張飛の乱暴ぶりは散見され、しだいに読者に印象づけられていきます。

 そして乱暴者のトラブルメーカーというイメージが決定づけられるのが、第2回の督郵暴行事件です。これについては以前述べたように、本来、劉備が行ったことを張飛に置きかえることで、『三国志演義』における各々のキャラクターを確立させているのです。

 そしてこの張飛の最大の失態と言えるのが、呂布(りょふ)に徐州を奪われたことです。

 

 第14回

 前刺史陶謙(とうけん)から譲られる形で徐州刺史となった劉備のもとに、都を逐われた呂布が頼ってきます。周りは反対しますが、劉備は彼を受け入れました。しかしその後、劉備袁術(えんじゅつ)討伐に出た隙に、呂布は徐州を奪ってしまうのです。この時、留守を任されていたのが張飛でした。張飛劉備との禁酒の約束を破り、酒を飲んで酔っていたため、呂布軍を防ぐことができず、劉備の母親や妻子をおいて脱出せざるを得ませんでした。

 さすがにこの失態には、張飛も大いに悔やみ、劉備関羽の前で自害しようとしましたが、それを止めて劉備は言います。

「古人の言にある、『兄弟は手足のごとく、妻子は衣服のごとし』と。衣服は破れてもまた繕えるが、手足を切られたらどうしようもない。我ら三人は桃園で義を結び、ともに生まれなかったのは是非もないが、ただ願わくはともに死にたいと誓ったはず。城も家も失ったが、兄弟を中途で失うことは忍びない。」


 なお劉備が言うところの古人の言「兄弟は手足のごとく、妻子は衣服のごとし」についての出典は定かではありません。「兄弟は左右の手の如し」(『晋書』邵続伝)、「兄弟は、手足なり。妻妾は、外舎の人なるのみ」(『宋史』張存伝)という例は見られように、兄弟を手足に喩えることは珍しくはないようですが、妻子を衣服に喩える例は確認できませんでした。ただ『宋史』の記述を見ると、妻よりも兄弟の方が身近な者であるという考え方はあったのかも知れません。

 

 いずれにせよこのエピソードは仁徳の人劉備のイメージを高め、さらに劉・関・張三兄弟の結束の固さを示すものになるのです。そしてこれ以降、張飛が起こす大きなトラブル(小さいものはありますが)は無くなるのです。