梅雨―杜甫

 「梅雨」というのはもともと梅の実が熟する頃に降る雨ということで、中国でもあります。その梅雨を詠った杜甫の詩を一首。

 

 梅雨  杜甫

南京犀浦道   南京 犀浦(さいほ)の道

四月熟黄梅   四月 黄梅 熟す

湛湛長江去   湛湛として 長江 去り

冥冥細雨来   冥冥として 細雨 来たる

茅茨疏易湿   茅茨 疏として湿(うるほ)ひ易く

雲霧密難開   雲霧 密として開き難し

竟日蛟龍喜   竟日 蛟龍(こうりゅう) 喜び

盤渦与岸迴   盤渦して 岸と迴(めぐ)

 

 南京(成都)にある犀浦県にある我が家の前の道では、四月になると梅が黄色く熟している。長江は満々と水をたたえて流れ去り、細かな雨が薄暗い中、降ってくる。茅葺きの屋根はまばらに葺いたもので雨がしみやすく、雲や霧は深く垂れこめて空はなかなか晴れない。このようなとき蛟龍などは一日中喜んで、曲がりくねる岸に沿って、渦をまいていることだろう。

 

※[南京]蜀の成都を指す。 [犀浦]成都にある県名。杜甫の草堂があった。 [茅茨]茅葺きの屋根。 [竟日]一日中。 [蛟龍]みずちと龍。伝説上の動物で水神でもある。 [盤渦]渦をまく。

 

 旧暦の4月は初夏、すなわち今の6月頃にあたります。梅の実が熟するなか降り続く雨、まことにうっとうしい様子が描かれ、そしてこんな時に喜ぶのは龍くらいのものであろうと詠います。

 龍は古来、風雨を呼ぶものであり、神的かつ荘厳なイメージがあります。それを雨の中で戯れるものとして描くことで、ぐっと人に近い存在になります。このような龍の描き方はあまり見られず、なかなか特徴的と言えるでしょう。

 

南史演義 巻4-10

 桓玄は足の速い船に乗って、西のかた江陵へと敗走した。郭銓(かくせん)は陣前で劉毅(りゅうき)に降った。殷仲文(いんちゅうぶん)は、はじめ桓玄に従って逃走したが、道中で引き返し、巴陵(はりょう)で何皇后と王皇后を迎え、二皇后を奉じて都建康へ向かった。劉裕はその罪を赦して不問にした。

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南史演義 巻4-9

 さて桓玄は尋陽(じんよう)に敗走したが、郭昶之(かくちょうし)が武器や兵力を支給したため、軍力を少し回復した。何無忌(かむき)、劉毅(りゅうき)、劉道規(りゅうどうき)の三将が追ってくるのを聞き、何澹之(かたんし)を留めて湓口(ほんこう)を守らせ、自身は晋帝を連れてさらに西に上った。江陵にいたると、桓石康(かんせきこう)がこれを迎えた。

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南史演義 巻4-8

 壬申(じんしん)、群臣は劉裕を領揚州刺史に推挙したが、劉裕は王謐(おうひつ)の恩に感じており、この領揚州刺史をもってこれに酬いることにした。そこで劉裕を推挙して大将軍・都督揚徐袞予青冀幽并八州軍事とした。そして劉毅(りゅうき)青州刺史とし、何無忌(かむき)を琅邪(ろうや)内史とし、孟昶(もうちょう)を丹陽尹(たんよういん)とした。その他諸々の処置はみな劉穆之(りゅうぼくし)にゆだねた。彼はこの慌ただしい中、立ちどころに諸事を定め、まったく不備はなかった。

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南史演義 巻4-7

 桓玄は二将の死を聞き、大いにおそれ、群臣に問うた。「わしは敗れるのか?」吏部郎の曹靖之(そうせいし)は答えて言った。「民は怨み、神は怒っております。臣はまことにそれを懼れております。」桓玄「民が怨むのはともかく、神はどうして怒っているのか?」曹靖之「晋室の宗廟は、長江のほとりを漂泊しており、楚を興した際の宗廟は、祖父君にさかのぼることはありませんでした。神がどうして怒ってないことがありましょうか!」桓玄「卿はどうして諫めなかったのか?」曹靖之「朝廷の人々はみな堯舜の世と称えておりました。臣一人がどうして何か言えましょうか?」桓玄は黙ったままであった。

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