張飛の成長

 引き続き張飛の話です。

 徐州での失態以降、張飛が起こす大きなトラブルはなくなります。そして逆に次のような例が見られるようになります。

 

 第22回

 徐州において劉備らは、曹操が派遣した劉岱(りゅうたい)・王忠(おうちゅう)の軍と対峙します。王忠は関羽に生け捕られ、張飛は残った劉岱を生け捕るために出陣します。陣に立てこもったまま挑発しても出てこない劉岱に対して、張飛は昼間から酒盛りをはじめます。そしてわざと酔っ払ったふりをして兵士の一人を痛めつけ、その兵士をひそかに脱走させ、劉岱のもとに行かせます。兵士の傷を見て信じ込んだ劉岱は、張飛の裏をかこうしとて失敗し、敗れて生け捕られてしまいます。

 

 第70回

 蜀を手に入れた劉備は、魏の曹操と漢中の支配をめぐって争います。そんな中、張飛は魏の将張郃(ちょうこう)と対峙します。やはり陣から出てこない張郃に対して、張飛はまた眼の前で酒盛りを始めます。それを遠く離れた地で聞いた劉備は心配しますが、諸葛亮はそれが張飛の策略だと見抜いていました。そしてまんまとにさそい出された張郃張飛にさんざんに撃ち破られるのでした。

 

 いずれも似たような展開となっていますが、ともに酒癖が悪いという欠点を逆に利用した張飛の見事な策略といえます。

 なお張飛張郃と戦い、撃ち破ったという話は正史『三国志』にもありますが、上述のような作戦は見られず、演義の創作です。

 

 そもそも正史『三国志』には、そもそも張飛が酒癖が悪いという記述はありません。ただし身分の高い者は敬愛するが、低い者を軽んじ、刑罰をしばしば科したり、部下を鞭で打ち据えたりしていたとあります。また正史の作者陳寿の評にも「暴而無恩」(暴にして恩無し)というのが張飛の欠点であったと述べています。

 こういった記述をもとに『三国志演義』のトラブルメーカー張飛は作られていったのでしょう。

 

 さて、演義においては徐州の失陥以降、張飛が酒で失敗することはなくなり、さらに知略をも発揮するなど、将として徐々に成長していく様子が窺えます。そしてその成長ぶりを顕著に示すと言えるのが、蜀攻略の際に敵将厳顔(げんがん)を降伏させたことでしょう。

 第63回

 張飛は目をむき歯をかんで怒鳴って言った。「このようなざまでどうして降らんのだ!まだ戦う気か?」厳顔は全く懼れる様子もなく、逆に張飛に向かって怒鳴った。「お前らは義もないのに我が州郡を侵した。首を斬られる将軍はあっても、降伏する将軍はおらん!」張飛は激怒し、左右に斬れと命じた。厳顔はなおも叫んだ。「賊めが!斬るならはやく斬れ、何を怒鳴っているのか。」
 張飛は、厳顔が声も雄壮で、顔色を変える様子もないのを見て、急に相好を崩し、左右の者を下がらせ、水から縛めを解き、上衣を着せ、正面の上座に座らせ、叩頭して言った。「先ほど悪しざまに言ったのは、申し訳もござらぬ。それがしもとより老将軍がまことの豪傑の士であることは存じておりました。」厳顔もその恩義に感じ、ついに帰順した。


  生け捕りにされても死を恐れぬ堂々たる態度を示した厳顔に対し、張飛は礼をもって対し、それに感じた厳顔もついに降伏したのです。

 

 まさに名将として成長していった張飛ですが、それを大きく暗転させたのが関羽の死でした。荊州を守っていた関羽が呉によって攻め殺されたことを聞いた張飛は大いに嘆き悲しみ、酒でそれを紛らすようになり、ささいなことで部下をむち打つようになります。

 そして報復のため呉に出陣することになると、弔い合戦であることを示すため、部下に全軍分の白い旗と白い甲冑を用意するよう命じます。部下は三日では無理だと言うのですが、張飛は彼らをむち打って無理矢理に了承させます。そしてその夜、酒に酔って寝ていたところをその部下に寝首をかかれ、張飛は殺されてしまいます。

 酒癖の悪さはなくなったように見えた張飛でしたが、最期には酒癖の悪さと粗暴さが結局彼の死を招くことになったのです。