一を聞いて二を知る
『論語』公冶長
子 子貢に謂ひて曰く、「女(なんじ)と回と孰(いず)れか愈(まさ)れる」と。対(こた)へて曰く、「賜(し)や何ぞ敢へて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知るのみ」と。子曰く、「如(し)かざるなり。吾と女(なんじ)と如かざるなり」と。
(孔子が弟子の子貢に言った。「おまえと顔回とではどちらがすぐれているかね?」子貢は答えた。「私は顔回にはとうていかないません。顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るだけです。」孔子は言った。「その通り及ばない。私もおまえと同じく及ばないのだ。」)
「一を聞いて十を知る」の語源となった話です。
ただここで興味深いのはむしろ子貢の「私は一を聞いて二を知るだけ」という台詞ではないでしょうか。ここではおそらく「一を聞いて十を知る」顔回に対して、謙遜の意味で用いているのだと思いますが、これも決して容易いことではないと思います。世間一般では「一を聞いて一を知る」ことすら満足にできない人も多いのではないでしょうか。
一を聞いて十を知り、孔子でさえ及ばないと言わしめるほどの顔回はともかく、せめて一を聞いて二を知る子貢のような人を目標にしたいものです。