南史演義 巻3-5

 ところで楊広(ようこう)は襄陽(じょうよう)に逃げかえり、泣きながら瓊玉(けいぎょく)に言った。「弟は戦死し、我が軍は全滅しました。あなたの夫の一族はことごとく殺害され、襄陽は孤城となっています。恐らくはこれを守ることは難しいと思われます。どうしましょう?」瓊玉はこの知らせを聞くと、驚いて魂も天に飛んでいき、地に伏して嘆き、そのまま倒れてしまった。

  たちまち桓謙(かんけん)が数万の軍を率い、襄陽を奪おうと城に迫ってきた。楊広は急いで城壁に上がり、守備に就いた。瓊玉は切歯扼腕し、桓とは生をともにせずと誓い、即座に甲冑を身につけ馬に乗り、男兵五百、女兵百人を率いて、城を出て迎え撃った。桓謙は破竹の勢いに乗じて長駆してきたが、襄陽の守将は、降るか逃げるかして、あえて抗うものはないと思っていた。城の近くまで来ると、一人の女将軍が道をふさぎ、陣を敷いていた。

 桓謙は馬を進めて問うて言った。「女、名は何という?」瓊玉は答えて言った。「私は楊使君の娘瓊玉。桓賊は我が父と夫を殺した。その肉を食らい、その皮をはいで寝ないではいられぬ。おまえは何者か。あえて死にに来たのか?」桓謙は怒って言った。「おまえは一女子にすぎず、かつ死は目前にある。なおあえて唇を揺らして無駄口をたたくか!」副将にこれを捕らえさせようとした。瓊玉はまっすぐその副将に迫り、一刀のもとにこれを切り捨てた。桓謙は大いに怒り、槍を取って彼女を突き刺そうとした。瓊玉は槍をかわし、剣を振り上げて斬りかかった。数合撃ち合ったが、瓊玉は力およばず、馬をひるがえして走った。桓謙は「どこへ行く!」と大声で叫び、馬を走らせて追撃した。瓊玉は弓を取り出し、身をひるがえして矢を放った。桓謙はあわてて避けたが、左腕にあたっため、それ以上追撃できず、そのまま退いた。

 瓊玉が城に入ると、楊広は彼女を迎えて言った。「あなたは勇敢ではありますが、敵軍は精鋭ですので、ここはただ堅く守るべきであり、軽々しく出て戦うべきではありません。」瓊玉は涙をのんで軍府に帰った。

 

 ところで桓謙は一矢を当てられたとはいえ、幸いにも甲冑が厚く、深手には至らなかった。翌日、大軍が城下にいたり、早朝から四方より攻撃したが、昼を過ぎても、城は落ちなかった。そこで軍を十里退き、兵士に命じて夜を徹して雲梯(うんてい)百台を造らせ、夜明けと同時にそれを用いて城に攻めかかろうとした。

 そして翌日の五更〔夜明け前〕、兵は口に棒をくわえ、馬は鈴をはずして、静かにまっすぐ城下に迫り、一気に雲梯を建てかけ、蟻のごとく登っていった。楊広は兵が攻めてきたことを知ると、城壁の上に立ち、兵を率いて防戦したが、たちまち一本の流れ矢が飛んできて、胸を貫いて死んでしまった。

 兵士は大いに混乱し、それに乗じて桓謙は城門を破って突入した。瓊玉は城門が破れたことを聞き、急いで女兵を率い、剣を抜いて軍府の門を出ようとした。しかし軍府の前には馬が縦横に走りまわっており、みな桓家の旗を立てていた。そこで門を出るのをやめ、そのまま女兵を従えて屋根に上がり、矢を射かけた。桓軍は次々と射殺され、兵はあえて近づこうとしなかった。矢が尽きると、瓊玉は屋根から下りて剣を振るって力戦したが、左右の兵も皆死んでしまうと、ついに自刎して果てた。桓謙はその義を重んじ、厚くこれを葬った。

 さて桓玄は江陵を押さえ、襄陽を平定すると、都に凱旋し、詔によって都督荊雍等七州軍事を加えられた。しかし桓玄の志はまだやまず、しきりに江州をも求め、詔によってまたそれが与えられた。これにより八州を統御することになった桓玄は、晋国の三分の二を有したと思い、異心が芽生えはじめた。制度を思うままに改め、上は執政をないがしろにし、奏上する語には不遜なものが多く、朝廷は朝夕にも乱を起こすのではないかと憂えたが、しかしそれをどうすることもできなかった。