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南史演義 巻2ー8

南史演義

 己亥の日、司馬尚之(しばしょうし)は牛渚において庾楷(ゆかい)を大いに破り、庾楷は単騎で逃げ去った。尚之は勝ちに乗じて、そのまま西府の軍と横江において戦ったが、あろうことか大敗を喫してしまい、率いていた水軍は全滅してしまった。

  司馬元顕(しばげんけん)は大いに恐れ、左右の者に計を問うた。すると張法順(ちょうほうじゅん)が言った。「北府の諸将については、私はよくその実情を知っています。王恭(おうきょう)はもとより才智は人に優れていますが、その傲慢さをみな嫌っており、さらに王国宝を誅殺してからは、ますますおごり高ぶっています。劉牢之(りゅうろうし)をその爪牙として頼ってはいますが、なお一部将として遇しているだけです。劉牢之は自らの才をたのんでいるため、それを深く恥として恨んでいます。今は王恭ともに反旗を翻していますが、本心ではありますまい。もし弁舌の士をもってこれを説き、王恭を討たせ、事が成った暁には彼の爵位を与えることを約束すれば、劉牢之は必ず喜んで王恭から離反し、矛を逆しまにして向かっていくでしょう。そうなれば王恭の軍を破ることなど、朽ちたものを砕くようにたやすいことです。首悪さえ除けば、その与党もおのずと瓦解し、何の恐れも無くなります。」元顕はこれに従い、劉牢之に書簡を送り、事の禍福を述べて密約を結ぶことを求めた。

 劉牢之はそれに心動かされ、子の敬宣(けいせん)に言った。「王恭は昔、先帝の大恩を受け、今は元舅となったが、王室を補弼することもできず、自らの強さをたのみとして、しきりに兵を挙げて都に向かおうとしている。わしにはその真意がよく分からぬ。この戦に勝ったとして、必ずしも天子を奉戴して、相王(司馬道子)と和睦するだろうか。とてもそうは思えん。わしは国威を奉じ、順逆の道を明らかにしようと思うが、どうじゃ?」敬宣は言った。「父上の仰せごもとっともです。朝廷に周の成王(せいおう)・康王(こうおう)美徳がないとはいえ、幽王(ゆうおう)・厲王(れいおう)悪徳があるわけではありません。しかし王恭はその兵威をたのみ、王室をないがしろにしています。父上は王恭と親しいといっても骨肉の間柄ではなく、君臣関係にあるわけでもありません。しばらく共に仕事をしていたとしても、意にかなわぬところがあれば、今日これを討ったとて、情や義において何か問題がありましょうか?」劉牢之はついに意を決し、元顕に返書を送り、彼に応ずることを約束した。
 時に王恭の参軍何澹(かたん)は、劉牢之の陣営にあり、牢之としばらく語り合っていたが、王恭のもとに帰って言った。「私が劉牢之の様子を窺いますに、少し異心があるようです。すみやかにこれを防がれた方が良いでしょう。」しかし王恭は信じず、酒を用意して劉牢之を招き、義兄弟の契りを交わした。だが劉牢之はすでに背くことを決めており、今さら義兄弟の契りを交わしたとて何の意味があろう?

 王恭は軍中の精鋭を選抜して、配下の顔延(がんえん)に率いさせて先鋒とし、劉牢之とともに進軍させ、すみやかに出発するよう命じた。劉牢之は竹里(ちくり)に至ったところで、顔延を帳の中に招いてこれを斬り、即座に兵を返して王恭を討つよう命令を下した。この時王恭はすでに城を出て兵威を輝かせており、儀仗の兵も鮮やかに、その行軍も粛々とし、その様子を多くの人々が取り巻いて見ていた。そこに劉敬宣が突進し、騎馬を縦横に走らせてこれらを撃ち、叫んで言った。「勅命を報じて王恭を誅す。降る者は殺さぬ!」

 一軍は大いに乱れ、王恭は思わぬ異変に、慌てふためいてなすすべ無く、馬を返して城に入ろうとしたが、城門はすでに閉ざされていた。劉牢之の婿高雅之(こうがし)が、城壁より矢を雨のごとく射かけ、兵もみな散じてしまい、王恭は進退極まって、単騎で逃亡した。しかし王恭はもとより馬には慣れておらず、曲阿(きょくあ)まで来たところで、腿にはあざができていた。船を呼んで乗ろうとしたところで捕らえられ、都に送られた。元顕は都の倪塘(げいとう)で彼を斬った。

 王恭は処刑に臨んで、なおひげを整え、その様子は泰然自若としていた。処刑官に向かって言った。「わしは人を信ずることには疎かった。ゆえにここに至ったのだ。その本心はどうして朝廷に不忠であったろうか。ただ百世の後に、この王恭があったことを知るであろう。」その子弟や与党もみな殺された。そして詔によって劉牢之がその任に代わり、京口(けいこう)に駐屯した。

 殷仲堪(いんちゅうかん)は王恭の死を聞き、大いに驚き、急いで楊佺期(ようせんき)、桓玄(かんげん)の二人と謀った。二人は言った。「彼らは王恭を殺したことで、わが軍が必ず恐れて敗走すると思っています。今、もし急いで引き上げれば、怯えを示すことになり、必ずそこに乗じられます。むしろその不意をついて、長駆して宮城に向かい、大兵力でもってこれを屈服させる方が良いでしょう。どうか進むにせよ退くにせよ拠るべき所を押さえられますように。」殷仲堪はこれに従い、中軍は蕪湖(ぶこ)に駐屯させ、先鋒は直ちに進軍させて石頭城(せきとうじょう)を奪った。そして王恭の仇を報ずることをかかげ、劉牢之、司馬尚之等を誅殺せんことを求め、そこで兵を止めた。軍兵は都周辺にあふれ、戦鼓の音は宮中まで達し、人々は大いに恐れた。

 司馬元顕はもともと王恭が死んだことで、大事は定まったと思っていた。そこに思いがけず西軍が大挙して迫り、猖獗をきわめているため、慌てて群臣を集めて計を問うた。ある者は、「急いで劉牢之を召して、彼の軍勢でもって阻ませましょう」と言い、ある者は「使者を遣わして殷仲堪に和解を求めれば、桓玄、楊佺期らもおのずと退くでしょう」と言い、議論は統一されなかった。

 そこに一人が進み出て言った。「私に一計がございます。楊、桓の二人を、こちらの命に従わせれば、殷仲堪はなすすべもありません。さすれば間違いなく朝廷は事も無く、社稷もとこしえに安んぜられましょう。」衆人がこれを見ると、すなわち桓冲(かんちゅう)の子の桓修(かんしゅう)であった。今は左衛将軍の職にあり、すなわち桓玄の従兄にあたる。元顕は大いに喜び、拱手して教えを請うた。人々もみな耳を傾けてこれを聴いた。ただその計がどのようなものであるかは分からない。次回の講釈を待て。