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南史演義 巻2-5

 もともと謝琰(しゃえん)には将略もなく、朝廷はその家柄と名望によって抜擢したのであった。そして着任後は、日々賓客と酒を飲んでは詩を詠い、賊がまたやって来ようとは思わず、全く備えもしていなかった。諸将が皆諫めて言った。「賊は近ごろ海辺におり、こちらの様子をうかがっています。武具を用意して兵を調練して敵に備えるべきです。先の王凝之(おうぎょうし)どのは備えをおろそかにしたためこの地を失いました。どうか再びそのようなことがありませんように。」

 謝琰は怒って言った。「かつて前秦の苻堅(ふけん)の兵百万も、我が国(東晋)を併呑しようと攻めてきて、多くの死者を淮南に送り出す結果となった。孫恩のごとき小賊が、敗走して海に入っていってしまえば、どうしてまた出てこられようか。もしまたそれらが来たとしても、天がやつらを殺そうとするであろう。」そしてもとのように歓談を続けていた。

 しかし孫恩は海上の島にあって、兵を一年休ませた後、再び侵攻し、余姚(よとう)を根拠地として、上虞(じょうぐ)を落とし、邢浦(けいほ)に至り、そこで官軍を大いに破り、長駆して会稽に迫ってきた。謝琰はちょうど食事をしている時にその報を聞き、箸を投げて立ち上がって言った。「必ずやつらを滅ぼし、その後で食べるとしよう。」馬にまたがって出陣したが、敗れて賊に殺されてしまい、会稽は再び陥落した。

 劉牢之はこれを聞き、夜を継いで救援にやって来て、城下において賊と戦い、大いにこれを破り、賊はまた敗走した。そこで大軍を上虞に駐屯させ、劉裕に句章を守らせた。句章は城壁も低く、兵士は数百に満たず、賊が出入する要路であったため、しばしば攻め囲まれた。城兵は、朝には健在でも夕べにはどうなるか分からないような切羽詰まった状態であった。劉裕はその城に入って固守し、賊が攻めてきても、そのたびにこれを破った。孫恩はその城が落とせないことを知り、これを捨てて北へ向かい、海塩(かいえん)より兵を進めたため、劉裕はそれを追尾し、海塩県の町に城を築いた。そこに賊将の姚盛(ようせい)が攻めてきたので、劉裕は城を出て戦いを挑み、姚盛に言った。「お前は俺を知っているのか?あえて死にに来たのか?」姚盛は劉裕を見て、心の中では怯えつつも、あえて数合戦ったが、狼狽して手足が震えていた。劉裕は大声で一喝し、そのまま馬から斬り落とした。そのため賊軍は潰滅した。

 孫恩は姚盛が死んだことを聞き、大いに怒り、大軍を挙げて攻め寄せてきた。劉裕は決死隊三百人を選び、甲冑を脱がせ、短刀を手に執らせ、太鼓を叩きながら出陣した。その兵は空を飛ぶように身軽で、賊はまともに戦うことができず、また大敗した。翌日、賊軍はまた攻め寄せてきて戦いを求めたが、劉裕は出陣しなかった。夜になると劉裕は旗を隠し、太鼓を静めさせ、すでに遁走したように見せかけた。そして明け方には門を開き、傷ついた兵数人を城壁の上に立たせた。賊はそれを見て、遠くから「劉裕はどうした?」と問うた。すると兵は「夜のうちにすでに逃げました」と答えた。賊は劉裕が敗走したと聞き、争って城に入ったところ、劉裕は突然兵を挙げて攻撃した。賊は大いに驚き、みな甲や矛をなげうって敗走した。劉裕は勢いに乗じて追撃し、斬り殺したり捕らえたりした者は数え切れないほどであった。

 孫恩は劉裕には勝てないと知り、そこで計を改めて兵を率いて滬瀆(ことく)に向かった。劉裕は城を出て追撃しようとしたが、そこで海塩県の令の鮑陋(ほうろう)が、子の鮑嗣之(ほうしし)に呉の兵一千を率いさせ、先鋒とするよう頼んだ。劉裕は言った。「賊の矛先ははなはだ鋭く、呉の人は戦に慣れていない。もし先鋒が不利におちいると、必ず我が軍は敗れます。後詰めとなられるのが良いでしょう。」

 しかし嗣之は納得せず、勇をたのんで先頭に立って進んだ。劉裕は彼が必ず敗れると思い、左右に旗や太鼓を多く伏せておいた。先鋒が交戦すると、伏せておいた兵が一斉に立ち上がり、旗を振り太鼓を鳴らし、その音は山谷に響き渡った。賊は四方に兵がいると思い、そのまま撤退したため、敗れずにすんだ。嗣之はますます喜び、軍を率いて追撃した。劉裕はそれを止めたが及ばず、結局、先鋒は賊の反撃に遭い、ことごとく敗れてしまった。後陣も士気を失って大敗し、劉裕も敗走した。賊はそれを激しく追撃してきたが、劉裕は急に馬を停め、左右の者に死んだ人間の甲冑を脱がせ、あえて余裕を示した。賊は逃げるべき敵が止まっているのを見て、伏兵があるのかと疑い、あえて迫ってこなかった。劉裕はそこでゆっくりと残兵をまとめ、陣を整えて引き上げた。