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南史演義 巻2-3

南史演義

 この時の会稽内史の王凝之(おうぎょうし)は、書聖王羲之の子であり、妻の謝道韞(しゃどううん)は、安西将軍謝奕(しゃえき)の娘であった。彼女は幼い頃から聡明で、才学に優れ、叔父の謝安も非常に愛していた。七、八歳の時、謝安は『詩経』の中でどれが最も良い句かと問うた。道韞は「吉甫 誦を作る、穆として清風の如し」の数句を詠い、謝安はその風雅で深い趣があることに感嘆した。またある雪の日、謝安は七言の詩句を作って言った。

  大雪粉粉何所似  大雪 粉粉として何の似る所ぞ

  (大雪がはらはらと降るのは何に似ているだろう)

 従兄の謝朗がその句に続けて言った。

  撒塩空中差可擬  塩を空中に撒けば差(や)や擬す可し

  (塩を空中に撒いたら少しは似ていましょうか)

 謝道韞は言った。

  未若柳絮因風起  未だ柳絮の風に因りて起こるに若(し)かず

  (柳絮が風に吹かれて舞うのには及びません)

 謝安はこれを聞いて道韞の文才に非常に感心した。成長して王凝之に嫁いだが、凝之が文才に乏しいため、いつもこれを厭い、里帰りするたびに、心中楽しまなかった。謝安が慰めて言った。「王郎はかの王逸少王羲之の子で、人柄も悪くないのに、何がそんなに気に入らないのか?」謝道韞は答えて言った。「我が一門の叔父には、阿大(謝安)、中郎(謝万)があり、従兄弟にはまた封(ほう)、胡(こ)、羯(けつ)、末(まつ)があって、常にそういう人たちを私は見てきました。だからこの天地にまさか王郎のような人がいようとは思いもしませんでした。」封とは謝歆(しゃきん)、胡とは謝朗(しゃろう)、羯とは謝玄(しゃげん)、末とは謝川(しゃせん)のことであり、みなその幼名であった。後に王凝之が会稽内史になると、一家そろってその任地にいたった。

 王凝之の弟の王献之(おうけんし)がある時、客と談論し、相手の理屈にやりこめられそうになった。すると謝道韞は侍女を遣わして王献之に言った。「あなたのためにあの囲みを解いて差し上げます。」そこで青い絹の衝立をたてて顔を隠し、その客とまた議論したが、その客は道韞をやりこめることはできなかった。このためその才名は四方に知られた。

 孫恩が乱をなすと、人々は驚き怖れたが、王凝之は代々天師道(てんしどう)を信奉しており、一兵をも出陣させず、また何の備えもせず、日々道室にこもって、ひざまずいて祈るばかりであった。役人たちが兵を出して賊を防ぐよう求めても、凝之は言った。「私はすでに大道に請願して、鬼兵百万を借りて、それぞれ要衝を守らしておる。賊など恐るるに足らん。」やがて賊が間近に迫って、ようやく兵を出すことを許したが、時すでに遅く、孫恩は城門を破って町に入り、会稽はそのまま陥落した。王凝之は慌てふためき逃げ出したが、孫恩はこれを捕らえ、その子らとともに殺してしまった。

 謝道韞は乱を聞いても、泰然自若として落ち着いていたが、すでに夫と子がみな賊に殺されたことを聞くと、健勝な侍女数人を連れ、刀を抜いて門を出た。そして賊がやってくると、身を挺して敵を迎え撃ち、その手で数人の賊を斬り殺したが、やがて力尽きて捕らわれてしまった。彼女の外孫である劉濤(りゅうとう)は、わずか数歳であったが、賊に殺されそうになったので、道韞は叫んで言った。「今回の事態の責任は王氏一門にあろう。他の一門は関係ないではないか。もしどうしてもその子を殺すというなら、先に私を殺すがよい!」その語気は慷慨として、声もきわめて激しかった。孫恩は残虐な人物であったが、これを聞くと態度を改め、その子を釈放し、また道韞も殺さなかった。