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南史演義 巻1-4

南史演義

 一方、王恭(おうきょう)は任地に帰ってより後、王国宝のなすことを深く憎み、まさに兵を挙げてこれを誅殺しようと思っていた。そしてある日、殷仲堪(いんちゅうかん)に書状を送って言った。「国宝らが政治を乱すことはますます甚だしく、ついには国家の禍いとなろう。ぜひ君と力を合わせてこれを除きたいと思う。」仲堪がこの書状を桓玄に示すと、玄は言った。「王恭どのにその意思があるのは、まさにあなたの大いなる幸いです。これに従わずにはおられますまい。」そこで殷仲堪はまた王恭に書状を送り、殷・王の結びつきは密になっていった。そして連名で上表文をたてまつり、国宝の罪状を訴え、二州の兵を挙げて、同時に都へと迫った。

 王国宝は殷仲堪・王恭が兵を起こしたことを聞き、恐懼してなすところを知らなかった。ひとまず弟の王緒(おうしょ)に命じて数百人をひきいさせ、都建康の東方にある竹里の守備につかせえ動静を窺わせたが、夜、暴風雨に遇うと、たちまちそれらの兵は離散してしまった。司馬道子(しばどうし)は国宝を召して対策を謀ったが、国宝は茫然としてほとんど答えられず、ただ「内外はすでに戒厳態勢となっています」と言うだけであった。国宝が退くと、王珣(おうしゅん)、車胤(しゃいん)が入ってきて謁見したので、道子は二人に計を問うた。

 王珣は言った。「王恭、殷仲堪と相王(道子)とは、もともと深い怨みがあるわけではなく、結局は権力争いに過ぎません。」道子「曹爽たる私がいなければ良いのだろうか。」王珣「何を言われます。大王にたとえ曹爽の罪があろうとも、孝伯(王恭)がどうして宣帝のまねをして良いものでしょうか。」魏の明帝の没後、皇族であり大将軍であった曹爽と、司馬懿(宣帝)とは権力争いを起こし、最後には司馬懿が曹爽を誅殺して実権を握ったが、ここではそれを喩えているのである。

 道子は言った。「王国宝兄弟は、私に天子の命をもって王・殷を征討するよう勧めているが、卿等はどう思うか。」車胤「昔、桓宣武(桓玄)は反乱を起こした袁真を征討する際、彼が立てこもる寿陽(じゅよう)を長い時をかけてようやく攻め落とすことができました。今、朝廷が兵を派遣すると、王恭は必ず京口(けいこう)に立てこもり固守することでしょう。もしその京口を落とせぬまま、長江の上流より殷仲堪の荊州軍が都に迫って来れば、どうやって防げばよいのでしょうか。」道子「それならばどうすれば良いのか。」二人「今、一計がありますが、相王はこれを用いることができなのではないかと心配です。もしこの計を用いれば、彼らの兵はすぐに退くことでしょう。」道子は急いでその計を問うた。二人は言った。「王恭、殷仲堪が討とうとしているのは国宝のみで、相王とは関係ございません。もし国宝の罪を正し、これを誅殺して、王・殷に謝罪すれば、すなわち彼らは稽首して帰順することでしょう。」

 道子はしばらく黙っていたが、やがて言った。「もし事なきを得るのであれば、どうして国宝一人を惜しもうか。」そして驃騎將軍の譙王(しょうおう)司馬尚之(しばしょうし)に命じて国宝を捕らえさせ、廷尉に付して死を賜り、ならびにその弟王緒を斬った。そして使者を王恭に送り、深く過ちを詫びた。そこで王恭はそのまま兵を引き上げて任地に戻り、殷仲堪もまた荊州に帰っていった。

 桓玄はまた殷仲堪に向かって言った。「今、兵を収めたとはいえ、これから戦がなくなるわけではありません。荊州の兵はまだ弱いので、あなたのために兵を集めて強くしたいと存じます。」仲堪はこれを許した。桓玄はそこで武勇の士を集め、彼らを荊州の軍団に配置するとともに、ひそかに死を恐れぬ者たちを養い、自分の手足とした。そして法令を厳格に施行し、士民は彼を畏れ敬うようになっていったが、それは殷仲堪以上のものがあり、仲堪も徐々に彼を憚るようになった。

 ところで一代の世が終わろうとすると、必ず次代の創業の主が天運に応じて興ってくるものである。

 その人は姓は劉、名は裕、字は徳輿(とくよ)、小字を寄奴(きど)といった。漢の楚の元王の二十一世の孫にあたり、代々、晋陵郡(しんりょうぐん)丹徒県(たんとけん)京口(けいこうり)に住んでいた。祖父劉靖(りゅうせい)は東安太守となり、父の劉翹(りゅうぎょう)は郡の功曹となった。母は趙氏であり、晋の哀帝の元年(362)三月壬寅の夜、劉裕は生まれた。その数日前、屋上で赤い光が天に輝き、隣が失火かと疑うほどであったが、近づいて見てみると何もなかった。そしてまさに生まれてくる晩には、甘露が屋上に降ってきたため、人々は皆この子は必ず貴人になるだろうと言いあった。

 しかし生まれて三日もしないうちに、母趙氏がにわかに亡くなってしまった。家は貧しく乳母を雇うこともできなかったので、父はその子を棄てようとした。しかし劉裕の叔母あたる張氏が、子の懐敬(かいけい)を生んで間もない頃であったが、子を棄てる話を聞き、急ぎ彼のところへ行き、抱いて帰った。そして自分の子よりも劉裕を優先して乳を与えたので、彼は無事であった。

 やがて成長すると、風骨は堂々として優れ、勇敢で壮健なことは周りに並ぶものがないほどであった。文字はほとんど知らず、豪放磊落で酒を好んだ。継母の蕭氏(しょうし)によくつかえ、孝行者として名が知られていた。にわかに父が亡くなり、家がますます貧しくなってくると、蕭氏は履(くつ)を織り、それを売って生活費にあて、劉裕にもそれをさせようとした。劉裕は言った。「昔、かの劉備は履を売って生計を立てていたが、ついには蜀帝となった。この劉裕は何者となるか分からないが、これをしないわけがない。」同郷の者は皆彼を賎しんだが、劉裕は平然自若としていた。

 彼が行動する際には、しばしば二匹の小さな龍がまわりについているのが見えた。山で木を切ったり水辺で魚を捕ったりしている時も、友人たちがこれを見、不思議なことだと感嘆していた。後にその龍はしだいに大きくなっていった。

 劉裕の家では薪が乏しかったので、毎日、川の中洲で荻を刈って薪に充てていた。ある日、斧を持ってそれらを刈りに出かけると、そこに数十丈の大蛇があり、中州でとぐろを巻いていた。頭は一石(19リットル)ほどもあり、皆それを見ると驚いて走って逃げていった。劉裕の家の蔵には弓矢があったので、帰ってそれを持ち出してその大蛇を射た。大蛇は傷つき、たちまちいなくなった。翌日、またそこに行ってみると、荻の草むらの中から杵と臼の音が聞こえてきたので、その音をたどっていくと、数人の童子がいた。みな青い衣をまとい、そこで薬をついていた。劉裕がどうしたのかと尋ねると、童子は答えて言った。「我が神王が昨日ここで遊んでいると、劉寄奴に傷つけられたので、薬をついてそれを塗っているのです。」劉裕は言った。「神であるのなら、どうして傷つけた相手を殺さないのだ?」童子は答えた。「寄奴は王であり、不死なので、殺すことができないのです。」劉裕は妄言だと思い、大声をあげてこれを叱ると、たちまち見えなくなった。劉裕はそこにあった薬を取って家に帰った。

 かつて劉裕が下邳(かひ)に行った際、一人の僧に遇った。その僧は劉裕をじっと見て言った。「江南にはいずれ争乱が起こるだろう。それを救うことができるのはそなたじゃ。」そして劉裕の手に傷があるのを見て言った。「それはどうして治さんのか。」劉裕「この傷は長年わずらっているんだが、まだ治らんのだ。」僧は笑って言った。「この手はまさに他のことに用いるべきものなのに、そんなことにわずらってはおられまい。」そこで懐より一包みの黄色い散薬を取り出して言った。「この傷は確かに治りにくいものじゃ。この薬でなければ治すことはできんじゃろう。」劉裕が薬を受け取ると、僧はそのままいなくなった。彼がその薬を塗ると、傷はたちどころに癒えたのである。その後、傷を受けるたびに、その散薬および童子のついた薬を用い、みなそれで治したのだった。