南史演義 巻5-8

 慕容超(ぼようちょう)はそこで韓範(かんはん)を秦に遣わして援軍を求めさせた。しかし彼らは知る由もなかったが、そのころ秦は夏(か)の侵攻を受け、兵を出しても敗戦が続いており、他を顧みる余裕はなかったのである。そのため先に遣わされた張綱(ちょうこう)が援軍を請うても徒労に終わっていた。そしてその帰途、張綱は晋軍に捕らえられ、そのまま劉裕に降っていた。劉裕は張綱を楼車に登らせ、城に向かって大声で呼ばわらせた。「秦は夏王赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)に敗れており、兵を出してこの城を救うことはできぬぞ。」城中はこれを聞き、みな気を失うほどだった。 

  また江南より新たに援軍がやってくると使者が伝えてくると、劉裕は精鋭を遣わして夜のうちにひそかにこれを迎え、夜が明けると同時に一斉に旗を張り太鼓を鳴り響かせたため、城中はますます恐れた。

 一方、韓範は長安に至り、しきりに救援を求めた。ついに秦は一万の兵を出してこれを救おうとし、先に使者を遣わして劉裕に言った。「慕容氏は我らの良き隣邦であるが、今、晋が急にこれに攻め寄せてきた。秦ではすでに鉄騎兵十万を洛陽に駐屯させている。もし晋軍が還らぬとあれば、長駆して進軍することになろう。」

 劉裕は使者に伝えて言った。「姚興(ようこう)に告ぐ。我らは燕を破り、兵を三年ほど休めた後、関中・洛陽を平定するだろう。今、自ら死を送ってくるとは、それが早まるだけだ。」

 劉穆之(りゅうぼくし)は秦の使者がやってきたと聞き、急いで劉裕に面会を求めたが、使者はすでに去った後だった。劉裕が使者に言ったことを彼に告げたところ、劉穆之は責めて言った。「常日頃、事の大小を問わず、必ず私と相談するとおっしゃっていました。この件は慎重に考えるべきことです。どうしてすぐに返答されたのですか?おっしゃった言葉では敵を威圧するに十分ではなく、いたずらに敵の怒りを買うことになりましょう。もし広固(こうこ)が落ちないうちに秦軍がやって来れば、どうやってこれに対処するおつもりですか?」
 劉裕は答えた。「これは政治ではなく軍機である。よって卿が考えることではないとして語らなかっただけだ。そもそも兵は神速を貴ぶものであり、彼らがもし救援に赴くのであれば、必ず我らがそれを知るのを恐れよう。どうしてわざわざ先に使者を派遣するのか。逆にこういうことを言ってきたのは、自らの威を誇大に示そうとしているだけだ。今、燕が攻められたことで、秦は必ず内心おそれ、自ら守ろうとするだけで精一杯のはず。どうして他を救う余裕などあろうか!」劉穆之はその言葉に感服した。秦は果たして出兵をやめた。韓範は燕に帰ることもできず、彼もまた劉裕に降った。かくて燕の外からの救援は絶たれたのである。

 

 慕容超は城内をめぐる際に、必ず寵姫の魏夫人を連れてともに城壁に登ったが、晋兵の盛んな様子を見ては互いに手を取り合って泣いた。左右の者は諫めて言った。「陛下は閉塞の不運に遭遇されましたが、今こそまさに努めて自らを奮い立たせ、兵の士気を高められるべきです。それなのにどうして婦女子と泣いてばかりいるのですか?」

 慕容超は涙を拭って止めた。久しく閉じられた城門の中では、疲れ果て弱っている者が大半であり、城を出て降る者が相次いだ。尚書令の悦寿(えつじゅ)が言った。「今、天は敵を助けて暴虐をなし、我が軍の兵士は疲れはて、ただこの孤城を守るだけで援軍の望みもありません。天の時、人の和、いずれも味方せぬことはお分かりでしょう。暦数が終わろうとする時、かの堯舜もなお位を譲ろうとされました。陛下も状況の変化にその身をゆだねられるべきと存じます〔暗に降伏を勧める意〕。」慕容超は嘆いて言った。「興廃は天命であるが、私は剣を奮って死ぬとしても、璧玉を口にくわえて〔古の降伏の礼〕生きることはできぬ。」

 

 丁亥、劉裕は諸将を集めて命じて言った。「賊どもは知恵も力も尽き果てているが、城がなかなか落ちないのは、諸将兵が命がけではなかったためである。今日、真っ先に城壁に登った者には重い恩賞を与えよう。一方、退く者は斬る!期限は正午だ。必ず勝ちをおさめるのだ!」ある人が「今日は往亡(おうもう)〔往きて亡ぶ日。進軍や遠行を忌む〕の日で、軍を進めるには良くありません」と言うと、劉裕は「我らが往き、彼らが亡(ほろ)ぶのだ。悪いはずがない!」と断言した。そこで諸将兵は勇戦し、四方から一斉に攻め寄せた。はたして広固のこの小城は落ちるのであろうか。続きは次の講釈を待て。