南史演義 巻5-2

 これより先、劉裕は劉敬宣(りゅうけいせん)に命じて諸軍の後援としていた。敬宣は日夜おこたることなく武器甲冑を整え、金や糧食を集め蓄えていた。そのため何無忌(かむき)等は敗退したとはいえ、これらを得てまた士気は高まった。兵を数十日とどめた後、また尋陽から西上した。

 夏口にいたると、敵兵が要険を守っており進むことができなかった。その時、桓振(かんしん)は部将の馮該(ふうがい)を遣わして東岸を押さえさせ、孟山図(もうさんと)魯山城を、桓仙客(かんせんきゃく)に偃月塁(えんげつるい)を守らせていた。これらの兵を合わせると一万にのぼり、水陸から相互に助けさせた。

  劉毅(りゅうき)と劉道規(りゅうどうき)は兵を分けてこれらに向かい、劉毅は魯山城を攻め、劉道規は偃月塁を攻め、何無忌は艦船を連ねて長江の中流をおさえ、敵軍の退路を断った。戦は辰の時から午の時〔午前8~12時頃〕まで続いたが、ついに二城は陥落し、孟山図、桓仙客は生け捕りにされた。そしてそのまま東岸に迫り、馮該の軍もまた敗走した。

 これより先、劉毅は江陵を落とすことは難しいと考え、南陽太守の魯宗之(ろそうし)に書簡を送って言った。「賊徒は敗れたりとはいえ、なお堅城に拠っています。どうか南陽の兵を挙げ、後背から攻めていただきたい。前後から挟撃すれば、成功はたやすいでしょう。」魯宗之はそのまま兵を進め、柞渓(さくけい)にて馮該を破り、これを斬った。

 桓振は魯宗之の兵が迫ろうとしているのを聞き、桓謙(かんけん)に言った。「東軍が攻めてきても、兄上はしばらく堅く守って、矛を交えないでいただきたい。我らが南陽の兵を破って還ってくるのを待ち、その後でやつらを撃ちましょう。」言い終わると、密かに軍を率いて出ていった。劉毅は桓振が城にいないことを探り得て、兵を進めてこれを取り囲み、昼夜攻撃を続けた。将士が城壁に肉薄して登ってきたため、桓謙は防ぐことができず、そのまま城を捨てて敗走した。桓振はちょうど魯宗之と相対していたが、城中が危急であることを知り、軍を引いて救援に向かった。しかし江陵はすでに落ちていた。魯宗之はさらに追撃し、桓振の軍も溳川(いんせん)で潰走した。劉懐粛(りゅうかいしゅく)が桓振を追い、彼を斬った。桓謙、桓蔚(かんい)、何澹之(かたんし)らは秦に亡命した。

 そこで何無忌は帝を奉じて先に都に還り、劉毅及び劉道規はそのまま夏口に駐屯し、荊州、襄陽を治めることとした。甲午、帝は建康に到着された。百官は宮門にいたり、それぞれ職を返上し罪を請うたが、詔によってみな復職させた。大赦が行われたが、ただ桓氏一族のみ赦されず、桓衝(かんしょう)のみ王室に忠義であったとして、特に赦されてその孫が後を継いだ。


 ところで殷仲文(いんちゅうぶん)は喪乱の後、朝廷に音楽がまだ備わっていないため、劉裕にこれを修治するよう求めた。劉裕「今は修治する暇がない。それにわしにはそれらが理解できん。」仲文「これを好まれればおのずと理解できましょう。」劉裕「確かに理解できれば好きにもなれようが、わざわざ理解しようとは思わん。」仲文は恥じて退いた。朝廷は建義の功を論じ、劉裕を豫章郡公に封じ、劉毅を南平郡公、何無忌を安城郡公とし、各人の本職や兼務はもとのままであった。その他の功ある者にはそれに応じて封賞があった。


 かつて劉毅が北府の従事であった頃、ある人が彼を英傑であると評価したが、劉敬宣は言った。「そうではない。そもそも非常の才には、おのずと調度というものがある。どうしてこの人が英傑などと言えよう。彼は表面は寛大であるが内心では人を忌み、自らおごり高ぶって人をあなどっている。もしいったん時運にあえば、上を犯して禍をなすであろう。」劉毅はこれを聞いて恨んでいた。ここにいたって劉裕が劉敬宣を江州刺史とすると、劉毅は劉裕に言った。「劉敬宣は建義にあずかっておりません。猛将労臣たちがまさに叙勲を待っておりますによって、敬宣などはもっと後にされるべきです。もしあなたが平生の御友誼を忘れられないのであれば、員外常侍などがよろしいでしょう。先日に太守を授けられただけでも優遇と言えますに、今また江州刺史に任ぜられてはとても驚き嘆くばかりです。」敬宣はこれを聞いて懼れ、あえて固辞して就なかった。そこでまた宣城内史に任じられた。