南史演義 巻4-10

 桓玄は足の速い船に乗って、西のかた江陵へと敗走した。郭銓(かくせん)は陣前で劉毅(りゅうき)に降った。殷仲文(いんちゅうぶん)は、はじめ桓玄に従って逃走したが、道中で引き返し、巴陵(はりょう)で何皇后と王皇后を迎え、二皇后を奉じて都建康へ向かった。劉裕はその罪を赦して不問にした。

  さて桓玄は江陵に至ると、兵士を数えてみたが、大半が離散していた。お気に入りの寵童に丁仙期(ていせんき)なるものがあり、容姿は美しく、性格は素直で優しく、常に寝起きをともにしていた。桓玄が朝臣と政事を論じ、あるいは賓客と宴遊する際にも、左右を離れることがなく、また美味な食があると必ず彼に分けて与えた。その丁仙期が敗戦の中で行方知れずになってしまい、桓玄は彼を思って食事もできず泣くばかりであった。人をやって彼を探させ、その知らせの馬が絶えず往来した。ようやく見つかって帰ってくると大いに喜び、その背をなでながら言った。「三軍は捨てても良いが、卿を捨てるわけにはいかぬ。」将兵はこれを聞いてみな激怒した。「我らの命は、一寵童にも及ばないのか!これでどうして力を尽くすことができよう?」ここで兵の心はますます離れていった。

 馮該(ふうがい)は桓玄に兵を整えてさらに戦うよう勧めたが、聞き入られなかった。この時、桓希(かんき)が漢中を守って兵数万を擁しており、桓玄はそこに行こうと考えていた。しかし人心はすでに離れており、指示も行き届かなかった。

 夜、命令を下そうとしたが、城内はすでに混乱してたため、桓玄は急ぎ腹心数百人と、馬に乗って西に走った。城門まで至ると、暗闇から彼を斬ろうとした者があった。しかしそれははずれ、前後で互いに斬り合いが始まり、混乱が激しくなる中、桓玄はようや船に至ることができた。左右の兵はみな散じており、従う者は百人にも満たなかった。さらなる変事が起こることを恐れ、急ぎ命令を下して進発させた。幸いにも後を追ってくる者はなく、航行を妨げらることはなかった。

 

 一日ほど進んでいくと、たちまち百艘ほどの船が、長江を覆うように迫ってきた。船上には槍や刀が林立し、旗が雲のごとく集まっていた。先頭の船に、一人の若い将があり、白銀の甲冑を身につけ、手には一本の令旗を持っていた。横に数人の副将があり、みな関西の大男であった。桓玄らの舟が近づくと、その将が大声で言った。「やってくるのはどこの船か?」船上から答えた。「楚の帝の御舟である。」まだ言い終わらないうちに、その将は旗を振るった。すると左右の船が一斉に取り囲むように迫ってきた。矢や弩が盛んに放たれ、雨のように降りそそいだ。

 桓玄は大いに驚き、慌てて退避させようとしたが、水夫はすでに射られており、船中でもすでに数人が射殺されていた。丁仙期は身をもって桓玄をかばい、身体中に矢を受けて死んだ。その将は船に飛び乗ってきて、刀を桓玄に向けた。桓玄は言った。「お前は何者か。あえて天子を殺そうというのか?」その将は言った。「私は天子の賊を殺すだけだ。」桓玄は頭上の玉の飾りを外して彼に示して言った。「わしを逃してくれたら、お前にこの玉飾りをやろう。」その将は言った。「お前を殺せば、玉飾りも手に入ろう。」そのまま彼を斬り、ことごとくその一族を誅殺した。果たして桓玄を殺した者は何者か。続きは次の講釈を待て。