南史演義 巻4-9

 さて桓玄は尋陽(じんよう)に敗走したが、郭昶之(かくちょうし)が武器や兵力を支給したため、軍力を少し回復した。何無忌(かむき)、劉毅(りゅうき)、劉道規(りゅうどうき)の三将が追ってくるのを聞き、何澹之(かたんし)を留めて湓口(ほんこう)を守らせ、自身は晋帝を連れてさらに西に上った。江陵にいたると、桓石康(かんせきこう)がこれを迎えた。

  桓玄は入城すると、更に人事をおこなって百官を置き、卞范之(べんはんし)尚書僕射とし、もっぱら峻厳さでもって群臣を従わせた。殷仲文(いんちゅうぶん)はそれとなくその不可を述べたが、桓玄は怒って言った。「今、諸将が規律を失い、旧楚へと還ってきた。しかし群臣どもは紛紛として、好き勝手なことばかり言っておる。厳格さでもってこれを取り締まるべきであり、寛容さを示すべきではない!」

 時に荊州、江州の諸郡は、桓玄が敗れて帰ってきたことを聞き、上表して起居を問う者があり、桓玄はみなこれらの上表文をしりぞけて見なかった。そして人々に新都江陵への遷都を祝福させた。

 

 この頃、何無忌等はすでに桑落州(そうらくしゅう)に至っており、何澹之は水軍を率いてこれを迎え撃った。何澹之の乗船は、羽儀旗幟が非常に盛んであった。何無忌はこれを攻めようとしたが、皆が言った。「賊の総帥は必ずそこにはいません。ただ我らを欺こうとしているだけです。これを攻めても無益です。」何無忌は言った。「そうではない。今、我が軍は少なく、戦っても完全勝利はおぼつかない。何澹之がもしそこにいなければ、船の守りは必ず弱く、我らが精鋭でもって攻めれば、必ずこれを得られるだろう。そしてこの船を得れば、敵の勢いはそがれ、我らの士気は大いに上がる。そこでさらに攻勢をかければ、必ず賊を破れよう。」劉道規もこれに同意したため、そのまま攻めていった。

 果たしてその船を捕獲することができ、周囲に大声で伝えて言った。「すでに何澹之を捕らえたぞ!」西軍はみな驚懼して混乱し、東軍はそれに乗じて攻めかかり、斬ったり捕らえたりする者は数えられないほどであった。何澹之はどうにか逃げることができた。東軍はそのまま湓口を抜けて尋陽に進み、そこに駐屯した。

 なおこの戦で、西軍の胡藩(こはん)が乗っていた舟は東軍に焼かれ、彼は甲冑をつけたまま水に入り、水底に潜行して数百歩進み、ようやく岸に至ることができた。そして江陵に還ろうとしたが、道は途絶えて行くことができず、そこで予章に走った。劉裕はこれを聞いて彼を召し寄せたので、胡藩はつに劉裕に降った。

 桓玄は何澹之が敗れたことを聞き、大いに懼れ、兵を出してこれを防ごうと考えた。そこで大将符宏(ふこう)に、梁州兵を率いさせて先鋒とし、その後を大軍が相次いで進発した。

 この時、桓玄はさらに報奨を設けて荊州の人馬を招集した。一月たらずで、数万の兵が集まった。楼船や武器も十分に備わり、軍勢は非常に盛んであった。しかし東軍の兵は一万に満たなかったため、非常にこれを憂え、ひとまず退いて尋陽を保ち、後日を謀ろうとする議論がなされた。それに対して劉道規は言った。「それはだめだ。敵は多く味方は少なく、今もし怯え懼れて進まなければ、必ずそれに乗じられる。尋陽に拠ったとして、どうして守りを固めることができよう?桓玄は雄豪の名はあるが、内実は怯懦である。加えてすでに一度ならず敗走しており、兵にも強い闘志は無い。両陣を構えて決戦する時は、勇ある者が勝つのであり、兵の数ではない!」

 言い終わると、甲冑を着けて出て行き、兵の先に立って進んでいった。矢や石もみな放たれたが、西軍はみな船の戸を閉じて避けるばかりであった。諸将は勇躍して彼に従い、出陣した後、火を放って輜重を焼き、西軍は大敗した。