南史演義 巻4-8

 壬申(じんしん)、群臣は劉裕を領揚州刺史に推挙したが、劉裕は王謐(おうひつ)の恩に感じており、この領揚州刺史をもってこれに酬いることにした。そこで劉裕を推挙して大将軍・都督揚徐袞予青冀幽并八州軍事とした。そして劉毅(りゅうき)青州刺史とし、何無忌(かむき)を琅邪(ろうや)内史とし、孟昶(もうちょう)を丹陽尹(たんよういん)とした。その他諸々の処置はみな劉穆之(りゅうぼくし)にゆだねた。彼はこの慌ただしい中、立ちどころに諸事を定め、まったく不備はなかった。

  劉穆之は劉裕に言った。「晋の隆安以来、政事はみだれ、綱紀も緩んだまま、豪族は好き勝手に振る舞い、民は困窮しています。司馬元顕(しばげんけん)政令は義に違い、桓玄の法律は煩雑で細かく、みな為政の道を失っていました。公が天下を治めようとされるのであれば、従前の失政を正されなければなりません。」そこで劉裕は自ら節倹につとめ、自身をもって範を垂れたので、内外の百官はみな粛然として奉職し、十日もたたずに、風俗はにわかに改まった。

 ある日、諸葛長民(しょかつちょうみん)が刁逵(ちょうき)を捕らえて都に連れてきた。そして予州がすでに平定されたと聞き、劉裕は大いに喜んだ。もともと諸葛長民と魏詠之(ぎえいし)は歴陽(れきよう)で事を挙げることを約していたが、刁逵に事前に悟られ、魏詠之は逃げ出し、諸葛長民は捕らえられてしまった。しかし建康に送られる途中、たまたま桓玄が敗れたため、護送人が檻を破って彼を助け出した。そこで諸葛長民は人を集め、取って返して予州を襲撃し、そのまま刁逵を捕らえ、ここに献じたのである。劉裕は怒って刁逵を斬り、その子や甥は長幼の別なく棄市され、昔日の恥辱に報じたのだった。後人が詩を作って歎じて言った。

 王謐為公刁氏族  王謐(おうひつ)は公と為り 刁氏(ちょうし)は族せられ
 平生恩怨別秋毫  平生の恩怨 秋毫(しゅうごう)に別る
 回思雍歯封侯事  雍歯(ようし)の侯に封ぜらるる事を回思し
 大度千秋仰漢高  大いに千秋に度って漢の高きを仰ぐ


 ところで劉敬宣(りゅうけいせん)後燕に出奔し、燕主慕容徳(ぼようとく)に厚遇されていた。敬宣はもともと天文に詳しく、ある夜、星を仰ぎ見て司馬休之(しばきゅうし)に言った。「晋がまさに復興しようとしている。この地もついには晋の領土となるだろう。」そこで青州の豪族と結び、南燕に拠って立つことを謀り、司馬休之を推して盟主とし、期日を決めて事を起こそうとした。

 この時、ともに亡命してきた劉軌(りゅうき)は燕の司空となって大任を委ねられており、燕に叛こうとしなかったため、ついにその謀は発覚した。敬宣、休之は事が泄れたことを知ると、夜を連ねて急走し、どうにか逃れることができた。淮泗(わいし)のあたりまで逃れてきたが、なお南朝の消息は分からなかった。

 劉敬宣はある夜、一つの夢を見た。それは丸い土が飲み込まれるものであったが、目覚めると喜んで言った。「丸とは、桓である。桓はすでに飲み込まれたのだ。私も本土に帰れよう!」やがて劉裕が都より彼を召し寄せる手書が届いた。敬宣はその書を見、左右に示して言った。「劉寄奴は私を裏切ることはなかった!」そして司馬休之とともに馳せ還った。

 建康に至ると、劉裕は彼に会って大いに喜び、言った。「今、卿が晋に帰したのは、ただ国難を救うだけでなく、父上の仇を報ずることにもなる。」劉敬宣は泣いて命を受けた。劉裕はそこで敬宣を晋陵太守とし、司馬休之を荊州刺史とした。

 

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