南史演義 巻4-7

 桓玄は二将の死を聞き、大いにおそれ、群臣に問うた。「わしは敗れるのか?」吏部郎の曹靖之(そうせいし)は答えて言った。「民は怨み、神は怒っております。臣はまことにそれを懼れております。」桓玄「民が怨むのはともかく、神はどうして怒っているのか?」曹靖之「晋室の宗廟は、長江のほとりを漂泊しており、楚を興した際の宗廟は、祖父君にさかのぼることはありませんでした。神がどうして怒ってないことがありましょうか!」桓玄「卿はどうして諫めなかったのか?」曹靖之「朝廷の人々はみな堯舜の世と称えておりました。臣一人がどうして何か言えましょうか?」桓玄は黙ったままであった。

  時に敵軍の知らせは日々急となり、桓玄は都の軍をことごとく集め、桓謙(かんけん)にこれを統率させ、何澹之(かたんし)の一軍を東陵に駐屯させ、卞承之(べんしょうし)の一軍を覆舟山(ふくしゅうざん)の西に駐屯させた。合わせてその兵は三万であり、また庾頤之(ゆいし)に精兵一万を率いさせ、左右の救援とした。

 

 乙未(いつび)、劉裕軍は覆舟山の東に至ると、先に脆弱な兵を山に登らせ、旗を張らせておとりの兵とした。それは山谷に満ちあふれるほどであり、敵がこれを眺めても、正確な数が分からなかった。早朝、食事が終わると、残りの食糧を棄てさせ、劉毅(りゅうき)と兵を数隊に分けて、敵陣に突入した。劉裕と劉毅は自ら先頭に立ち、将兵もみな一人で百人に当たるほどに死戦し、その声は天地を動かすかのようであった。

 この時、たまたま東北の風が急に吹いてきたので、劉裕は風に乗じて火を放った。煙と炎は天にみなぎり、太鼓の音と喊声は都をふるわすほどであった。桓謙は恐ろしさに震え上がり、諸将もなすすべを知らなかった。また庾頤之が率いていた軍には北府の者が多く、もとより劉裕に畏服しており、その劉裕が陣に臨んでいるのを見ると、みな戦わずに敗走し、軍はそのまま崩壊した。

 これより先、桓玄は勝てないことを懼れ、心中逃げ出すことをすでに決めていた。ひそかに殷仲文(いんちゅうぶん)に命じて石頭城に船を用意させ、愛蔵の書画を積んでおいた。仲文がその理由を問うと、桓玄は言った。「兵とは凶であり、戦とは危いものである。あるいは意外な変事があるかもしれぬ。運び出す用意はしておくべきであろう。」

 大軍が一敗するにおよび、桓玄は近衛兵数千人を率い、家族を連れて南掖門から脱出した。胡藩(こはん)が馬をおさえて諫めて言った。「今、羽林の射手はなお八百人あり、みな精鋭で、かつ彼ら西人は代々の恩を受けています。一戦にすら駆らず、これを捨ててしまってどこに行こうというのですか?」桓玄は答えず、馬に鞭あてて急ぎ石頭城へと走っていき、殷仲文等とともに長江に船を浮かべて南に去っていった。

 この時、都に主はなくなり、百官は門を開いて劉裕を迎えた。そこで劉裕は軍を整えて建康に入ったが、軍士に命じて民を害することを禁じたため、民衆はみな安堵した。庚申(こうしん)、劉裕軍は石頭城に駐屯し、ここに留台官〔帝不在の際、都の留守を守る官〕を立てた。さらに正陽門外で桓氏の位牌を焼き、建康に残っていたその宗族をことごとく誅殺した。また、諸将を遣わして桓玄を追わせる一方、臧熹(ぞうき)に命じ、宮中の地図や書籍を収めさせ、その上で府庫に封をさせた。その際、劉裕は黄金の楽器を見つけ、臧熹に問うた。「卿はこれが欲しくないか?」臧熹は色を正して答えた。「皇上は幽閉され、その居場所を失っておられます。将軍はいま大義を建てられ、王家に労を尽くされています。不肖私、音楽に気持ちはありません。」劉裕は笑って言った。「いささか戯れただけだ。」