南史演義 巻4-2

 元興二年(403)十二月丁丑(ていちゅう)、群臣が入朝し、帝に正殿にて手ずから禅譲の詔を書くよう求めた。帝はやむを得ず司徒王謐(おうひつ)を遣わして玉璽を奉り、楚に帝位をお譲りになった。そして帝は位を降り、江州の雍安宮に移られた。百官は楚王府にやって来て賀を述べた。

  庚寅朔(こういんさく)、九里山の北に壇を築き、桓玄はそこで帝位に就き、国号を大楚とし、雍始(ようし)改元した。桓玄が建康宮に入り、御座に登ろうとした際、床がたちまち陥没した。群臣は色を失い、桓玄もまた愕然とした。殷仲文(いんちゅうぶん)は進み出て言った。「聖徳が高く厚すぎるために、大地もそれを載せることができないのです。」桓玄は大いに悦び、尊父桓温(かんおん)に追贈して宣武皇帝とし、母の司馬氏を宣武皇后とした。祖父の桓彝(かんい)までさかのぼろうとしたが、名号や地位が明らかでなかったため、追尊して廟を立てることはなかった。ある人が諫めたが聴かなかった。卞承之(べんしょうし)は言った。「宗廟の祭に、祖父までもさかのぼらないとは、楚徳も長くないだろう。」

 桓玄は即位してより、心中常に不安であった。ある夜、風雨が非常に激しく、長江の波が石頭城にまで入り込み、平地にも数丈の大水があり、人の死体が漂流し、その騒ぎは天に響き渡った。桓玄はこれを聞いて懼れて言った。「やつらが来た!」後に長江の水が押し寄せていたことを聞き、そこで安心した。

 性質はまた貪欲で卑しく、朝士が法書や名画を持っていると聴くと、必ず樗蒲(ちょぼ。ゲーム・賭博の一種)に借りてこれを得た。宝珠をもてあそび、手から離さなかった。また奏上するものに、もし一字でも誤りがあると、必ず指摘してただし、自らの聡明さを示そうとした。さまざまなことを制定したが、朝に決めたことが晩には改められたため、従うものはなかった。

 この時、三呉の地では大飢饉が起こっており、戸口は半減し、会稽郡では十人に三、四人の死者が出た。臨海、永嘉等の県では、餓死者がきわめて多く、人がほとんどいなくなるほどであった。しかし富豪達は絹の衣をまとい、金や玉をふところに、門を閉ざして餓死するものを見るばかりであり、桓玄もまた心配することはなかった。さらに宮室を営繕し、盛んに土木工事をおこし、それらを厳しく監督した。このため内外は失望し、朝野も騷然としてきた。

 

 秘書監王玄徳(おうげんとく)は弟の仲徳(ちゅうとく)とともに、ある日、劉裕を訪ねて言った。「古より天命をあらためる者は、一族に限ることではありません。そして今起った者は、恐らく大事をなすに足りません。他日、天下を安んずる者は必ずあなたでしょう。」劉裕は久しく義挙を起こそうとしており、そこで答えて言った。「その言葉、どうして私に当たりましょう?しかしもし変事があれば、協力をお願いしたい。」仲徳は言った。「我ら兄弟、どうして反逆者を助けましょうか。あなたの命があれば、いつでも駆けつけます。」そこで密約を交わして去った。

 時に桓宏(かんこう)青州に駐屯しており、主簿の孟昶(もうちょう)を使者として建康に遣わした。桓玄は彼を見て悦び、参軍の劉邁(りゅうまい)に言った。「わしは処士の中に、尚書郎にふさわしい者を得た。卿と同郷だが、知っているか?」劉邁は問うた。「何者ですか?」桓玄「孟昶じゃ。」劉邁はもともと孟昶と不和であり、答えて言った。「臣は京口にありましたが、孟昶の才能など聞いたことがありません。ただ聞いたのは、父子でぐだぐだと詩を贈り合っていたとか。」桓玄は笑ってやめた。孟昶はこれを聞いて彼を恨んだ。