南史演義 巻3-7

 この時、桓玄(かんげん)はしばしば勝利を収めていたとはいえ、やはり劉牢之(りゅうろうし)を恐れ、あえてすぐに都の門を犯そうとはしなかった。卞范之(べんはんし)が言った。「劉牢之が強兵数万を擁しながら、溧州(りつしゅう)に軍をとどめ、徘徊して進もうとしないところを見ますに、必ず司馬元顕(しばげんけん)に対して二心を抱いています。もし礼を低くして厚く贈り物をし、これと手を結べば、元顕の首を取ること塵芥(ちりあくた)を拾うようなものです。」

  桓玄はこの計に従い、そこで誰が行くに堪えるかを問うた。すると従事の何穆(かぼく)という者が、劉牢之とよしみがあるため、行って説かんことを請うた。桓玄はそこで何穆に密かに劉牢之のもとに行かせ、次の書簡を送った。

 「古より主を震わすほどの威を戴き、賞されない功績を抱き、自ら全うしたものは誰がいようか?越の文種(ぶんしょう)、秦の白起(はくき)、漢の韓信(かんしん)らは、みな名君につかえて力を尽くしながら、功の成った暁には、なお誅殺を免れることはできなかった。ましてや凶愚な主君に仕えるとなればなおさらであろう。君がもし今日の戦に勝ったとしても一門を傾けることになり、敗れれば当然一族を滅ぼしてしまうだろう。これでどこに安泰を求めるつもりなのか?むしろ計画を改め、長く富貴を保つことができたほうが良かろう。かつて斉の管仲(かんちゅう)桓公の命を狙ってその帯鉤を射、晋の一宦官は文公重耳(ちょうじ)の命を狙ってその袂を斬ったが、いずれも害されず後に主君を輔佐することになった。そのような例もあるし、まして私と君とは何の仇も怨みもないではないか?」

 劉牢之は書簡を見て何も言わなかった。何穆は言った。「桓公が私を遣わしたのは、まことに至誠の心をあなたに告げたのです。事が成ればともにその福を受けるというのに、あなたは何を疑っているのですか?」劉牢之はついに許諾し、和睦することにした。劉裕(りゅうゆう)、何無忌(かむき)はしきりに諫めたが、牢之は聴かなかった。子の劉敬宣(りゅうけいせん)もまた諫めて言った。「国家は衰え危機に瀕しており、天下に重きをなすのは、父上と桓玄です。桓玄は亡父桓温(かんおん)の資質を受け継ぎ、全楚の地を有し、すでに晋国の三分の二を押さえています。今これをほしいままにさせれば、その声望は朝廷をもしのぐようになり、対処が難しくなるのではないでしょうか。董卓の変が、まさに今起ころうとしているのです。」劉牢之は怒って言った。「私が今日桓玄を倒すことなど手のひらを返すようなものだ。ただ桓玄を平らげた後、あの司馬元顕をどうすればよいのか?」

 ついに劉敬宣を遣わして桓玄に和を請うた。桓玄は敬宣がやって来たことを聞き、轅門(かんもん)を開き陣営を出て、辞を低くして彼を迎えた。酒宴でもてなし、名画等を見せた後、敬宣に言った。「帰って尊公に告げられよ。事が成った日には、朝政はことごとくお任せすると。私は外敵を防ぐ藩塀となろう。」

 劉敬宣は拝礼して辞去し、桓玄は轅門を出て見送り、惜しみつつ別れた。ある人が桓玄に問うた。「公はどうしてそのように彼を敬われるのですか。」桓玄は言った。「劉牢之はすでに我が掌中にあるが、その意をしっかりと固めておくにしくはない。」劉敬宣は帰って桓玄の言葉を告げた。劉牢之は大いに喜び、兵を班瀆(はんとく)まで退いた。

 

 桓玄は劉牢之が退いたことを聞くと、軍を率いてまっすぐ新亭(しんてい)に至った。司馬元顕はこれを見て色を失い、船を棄てて岸に上がり、宣陽門(せんようもん)の外に軍を敷いた。やがて劉牢之が自分に背いたことを知り、ますます恐れ、宮中に還ってそこで守りを固めようとした。しかし軍を引き返そうとした時、桓玄の先鋒がすでに迫ってきており、彼らは武器を抜いて叫んだ。「武器を棄てよ。都の軍はもはや潰滅したも同然だ。」司馬元顕は単騎で逃げだし、京府に帰った。父の司馬道子(しばどうし)を見て言った。「数年にわたって兵を養っておりましたのに、今、敵を拒むものは一人もおりません。どういたしましょうか。」父子はお互い抱き合って大いに泣いた。やがて桓玄軍の兵がやって来ると、自ら降伏した。

 司馬元顕は捕らえられ、新亭に連行された。桓玄は彼を楼船の前に引き立て、詰問して言った。「乳臭い小僧が、どうして自らの分をわきまえず、みだりにわしを除こうとしたのか。」元顕は言った。「張法順(ちょうほうじゅん)が私を誤らせたのだ。」

 壬申(じんしん)、桓玄は京に入り、百官が拝礼して迎えた。詔が下り、桓玄に大丞相・総百揆・都督中外諸軍事が加えられた。桓偉(かんい)荊州刺史となり、桓謙(かんけん)尚書左僕射となった。桓修(かんしゅう)は徐兗(じょえん)二州刺史となり、京口(けいこう)に駐屯することとなった。そのほかは皆もとの職のままであった。司馬道子には死を賜い、司馬元顕、譙王(しょうおう)司馬尚之(しばしょうし)、張法順は市中において斬首された。ここにおいて大権はすべて桓玄に帰し、内外で畏服しないものはなかった。