南史演義 巻3-6

 ところで、庾楷(ゆかい)はもともと反覆の徒であり、先ごろ桓玄(かんげん)に味方したものの、ただ南昌(なんしょう)太守を与えられただけであったため、鬱鬱(うつうつ)として楽しまなかった。そして桓玄によって夏口(かこう)に移されたため、さらに不満を抱き、司馬元顕(しばげんけん)に書を送って言った。「桓玄は荊州にあって、大いに人心を失っており、兵もその用をなしておりません。もし朝廷が一将を派遣してこれを討伐されるのであれば、私も内応し、その軍を打ち破りましょう。」

 司馬元顕はこの書を見て、張法順(ちょうほうじゅん)に言った。「桓玄はどうするべきか?」法順は言った。「桓玄は先祖代々の資質を受け継いでおり、若くして豪気があり、すでに殷、楊を平定して、荊州をも手に入れました。その兵は日々強力となり、ほしいままに奸凶をなして、必ずや国家の禍いとなるでしょう。今、荊州を得たばかりで、人心がまだなついていないのに乗じ、劉牢之(りゅうろうし)を先鋒とし、大軍を送りましょう。庚楷が内側から背き、朝廷が外から攻めれば、彼の首を取れるはずです。」

 元顕はうなずき、張法順を遣わして劉牢之に伝えさせたが、牢之は難色を示した。張法順は還ると元顕に言った。「劉牢之の言色を見ますに、必ず二心があります。彼を召しよせて殺し、後の憂いを断っておいた方が良いでしょう。」元顕「我らは今まさに桓玄を滅ぼそうとしているのに、どうして先に彼を殺すことができようか?さらに劉牢之と桓玄とは仇敵である。我らにそむくことはあるまい。」

 

 そこで元興元年(402)正月、詔を下して桓玄の罪を述べた。都より出発する一万が中軍となり、劉牢之に命じて北府の兵を率いさせて先鋒とし、多くの軍船を整えさせ、期日を決めて進発した。

 桓玄は、朝廷が自分を討伐しようとしているのを聞いて大いに驚き、自らを守るためとにかく兵力を集中させ、江陵(こうりょう)だけでも保とうと考えた。しかし卞范之(べんはんし)は言った。「明公(との)の英威は天下を震わせるほどで、司馬元顕など口の青い子供です。また劉牢之も大いに軍心を失っており、ここで兵を挙げて近畿に迫り、我が兵威を示せば、すぐにでも敵は崩壊することでしょう。どうしてわざわざ敵をこちらに招き入れ、自ら窮迫を求めるのですか?」

 桓玄はこれに従い、桓偉(かんい)を留めて江陵を守らせ、天下に檄文を発し、司馬元顕の罪状を明らかにし、兵を挙げて東に下った。この時、なお勝てないことを恐れて、常に西に還るときの計を考えていた。尋陽(じんよう)を過ぎても、敵兵が見えないので、心中初めて喜び、将兵の士気もまた上がった。

 一方、庚楷はひたすら官軍の到着を待って内応しようとしていた。しかしたまたま庚楷の下男が侍女と密会しているのを発見し、その罪を罰しようとしたところ、その下男が桓玄の所に逃げ込み、陰謀が発覚した。そして桓玄は即座に庾楷を捕らえ、彼を斬った。

 

 丁卯(ていぼう)、桓玄は姑孰(こじゅく)に至り、大将馮該(ふうがい)を遣わして兵を進めて歴陽(れきよう)を攻めさせた。その守将司馬休之(しばきゅうし)は城を出て戦ったが敗れ、城を棄てて逃走した。また司馬尚之(しばしょうし)は歩兵九千を率いて、横江(おうこう)に陣を敷いたが、その将の楊秋(ようしゅう)が一軍を率いて桓玄に降ったため、尚之の軍は壊滅し、彼は桓玄に捕らえられた。

 司馬元顕は司馬休之・尚之の兵が敗れたことを聞くと、大いに懼れた。頼りとする劉牢之に何度も進軍するよう勧めたが、彼は応じなかった。

 もともと劉牢之は王恭(おうきょう)を誅してより、功名が右に出るものはいないと考えていたが、司馬元顕は彼に新たに礼遇を加えることはなかった。先陣を受けてからも、しばしば元顕の門に行ったが会うことができず、そのため彼を怨んでいた。また桓玄が滅びると、おのれの功名がますます高まり、容れられなくなることも恐れていた。そこで桓玄の手を借りてまず執政(司馬元顕)を除き、その後桓玄の隙をうかがって彼を倒そうと考え、兵を押さえたまま動かず、じっと勝敗の様子を見ていた。