読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

曹操の恋―吉川『三国志』より

三国志

 関羽曹操について、今回は吉川英治三国志』から見てみたいと思います。

 以前述べたように、曹操関羽を非常に高く評価し、自身の部下にしたいと願いますが、その時の曹操の思いを、吉川英治は「恋」と表現しています。
 吉川英治三国志』では「恋の曹操」という章があり、次のような曹操の台詞があります。

 実をいうと、予は遠い以前から、関羽の男ぶりに恋しておる。沈剛内勇、まことに寛濶(かんかつ)な男で、しかも武芸は三軍に冠たるものがある。……こんどの戦こそ、日頃の恋をとげるにはまたとない好機。なんとかして彼を麾下に加えたいものである。
  ……〈略〉……
きょうは実に愉快な日だ。曹操にとっては、日頃の恋がかなったような――また一挙に十州の城を手に入れたよりも大きな歓びを感じる。

 曹操自らそれは「恋」であると言っています。この場面は、優れた士を敬愛する曹操の心情が強くうかがえます。

  しかし一旦は曹操に降った関羽ですが、劉備の居場所を知ると、曹操のもとを去っていきます。

 ついに関羽は去った!
 自分をすてて玄徳のもとへ帰った!
 辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。
 「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」
 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。
 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人(しょうじん)の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。
 「…………」
 けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何(いかん)ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛(まつげ)は、胸中の苦悶をしばだたいた。

  そしてまわりの諸将は関羽を追いかけるべきだと訴えますが、曹操はそれを拒みます。

関羽の出奔(しゅっぽん)は、あくまで義にそむいてはいない。彼は七度も暇を乞いに府門を訪れているが、予が避客牌(ひかくはい)をかけて門を閉じていたため、ついに書をのこして立ち去ったのだ。大方の非礼はかえって曹操にある。生涯、彼の心底に、曹操は気心の小さいものよと嗤(わら)われているのは心苦しい。……まだ、途も遠くへはへだたるまい。追いついて、彼にも我にも、後々までの思い出のよい信義の別れを告げよう。――張遼(ちょうりょう)供をせい!」
  ……〈略〉……

「オオ羽将軍。――あわただしい、ご出立ではないか。さりとは余りに名残り惜しい。何とてそう路を急ぎ給うのか」
  関羽は、聞くと、馬上のまま慇懃(いんぎん)に一礼して、
 「その以前、それがしと丞相との間には三つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」
 「惜しいかな。君と予との交わりの日の余りにも短かりしことよ。――予も、天下の宰相たり、決して昔日(せきじつ)の約束を違(たが)えんなどとは考えていない。……しかし、しかし、余りにもご滞留が短かかったような心地がする」
 「鴻恩(こうおん)、いつの日か忘れましょう。さりながら今、故主の所在を知りつつ、安閑と無為の日を過して、丞相の温情にあまえているのも心ぐるしく……ついに去らんの意を決して、七度まで府門をお訪ねしましたが、つねに門は各々とざされていて、むなしく立ち帰るしかありませんでした。お暇も乞わずに、早々旅へ急いだ罪はどうかご寛容ねがいたい」
 「いやいや、あらかじめ君の訪れを知って、牌(はい)をかけおいたのは予の科(とが)である。――否、自分の小心のなせる業(わざ)と明らかに告白する。いま自身でこれへ追ってきたのは、その小心をみずから恥じたからである」
「なんの、なんの、丞相の寛濶(かんかつ)な度量は、何ものにも、較(くら)べるものはありません。誰よりも、それがしが深く知っておるつもりです」
 「本望である。将軍がそう感じてくれれば、それで本望というもの。別れたあとの心地も潔(いさぎよ)い。……おお、張遼、あれを」
  ……〈略〉……

「敵たると味方たるとをとわず、武人の薫(かんば)しい心操(しんそう)に接するほど、予は、楽しいことはない。その一瞬(とき)は、天地も人間も、すべてこの世が美しいものに満ちているような心地がするのだ。――そういう一箇の人格が他を薫化(くんか)することは、後世千年、二千年にも及ぶであろう。其方たちも、この世でよき人物に会ったことを徳として、彼の心根に見ならい、おのおの末代にいたるまで芳(よ)き名をのこせよ」と、訓戒したということである。
 このことばから深くうかがうと、曹操はよく武将の本分を知っていたし、また自己の性格のうちにある善性と悪性をもわきまえていたということができる。そして努めて、善将にならんと心がけていたこともたしかだと云えよう。

 長々と引用しましたが、この曹操関羽との別れの場面は、読み手に大きな感動を与えるものと言えるでしょう。吉川英治の優れた筆致によって、見事な英雄曹操が描き出されています。