南史演義 巻2ー7

 話は変わって、相王司馬道子(しばどうし)の世子元顕(げんけん)は、十六歳であったが、非常に聡明で政治にも明るく、気力も盛んで鋭かった。常に朝廷が地方の諸侯の掣肘を受けていることを憂い、しばしば父に早くそれらの対策を謀るよう勧めていた。そこで道子は元顕を拝して驃騎将軍とし、その衛府の兵士、及び徐州の文武の官を彼に従わせ、国政に加わらせた。元顕は大任に当たり、譙王(しょうおう)の司馬尚之(しばしょうし)とその弟の休之(きゅうし)を腹心とし、張法順(ちょうほうじゅん)を謀主とし、司馬の王愉(おうゆ)を江州刺史兼督予州四郡として、軍事上の援護とした。

  しかし当時は庾楷(ゆかい)が予州を治めており、これを聞いて喜ばず、上疏して言った。「江州は内地であり険阻の地ではなく、さらに西府の北には夷狄どもを抱えています。予州四郡を割いて、王愉などに任せるべきではありません。」しかし朝廷は許さなかった。庾楷は大いに怒り、王恭(おうきょう)が司馬道子と隙があるのを知っていたため、王恭に使者を遣わして言った。「司馬尚之兄弟は、朝廷の枢要にあること、王国宝(おうこくほう)以上であり、朝権を借りて、諸藩の力を削り弱めるため、以前の些細なことを持ち出して処罰しようとしています。これは大きな禍になるでしょう。その謀議がまだなされぬうちに、すみやかに対処すべきと存じます。」

 王恭は王国宝を誅してより、自らの勢威に勝てるものはないと思っており、それに同意した。そして殷仲堪(いんちゅうかん)、桓玄(かんげん)に告げると、二人は喜んで命に従った。王恭を推して盟主とし、期日を決めて宮城へと向かった。しかし劉牢之(りゅうろうし)はこれを聞き、王恭のもとにやって来て諫めて言った。「将軍は、国家の元舅であり、会稽王(司馬道子)は、天子様の叔父にあたります。会稽王はまた国政をつかさどっており、先には将軍のために自ら寵愛していた王国宝兄弟を誅殺し、たいへん将軍を信服しています。この度の処置は、将軍の御心にはかなわぬ所かもしれませんが、かといって大失というわけでもありません。庚楷より四郡を割いて、王愉に与えたところで、将軍に何の不利がありましょう?どうして晋陽の兵を何度も起こされるのですか!」

 かつて春秋時代、晋の趙鞅(ちょうおう)は晋陽で兵を起こし、晋公室の保護、君側の奸討伐の名目で、荀寅(じゅんいん)、士吉射(しきつしゃ)らを滅ぼした。この後、地方長官が朝廷に不満を抱いて兵を挙げることを、「晋陽の兵」と言うのである。しかし王恭はこの言に従わず、ともに事を起こすよう求めた。劉牢之はやむを得ず彼に従うことにした。

 ところで以前にも述べたが、殷仲堪という男は非常に優柔不断な人物である。王恭の命に応ずることにはしたものの、即座に兵を挙げようとはしなかった。その頃、南郡の相の楊佺期(ようせんき)は、仲堪の腹心であったが、勇名があり、自ら漢の太尉楊震(ようしん)の後裔と称しており、その祖父らもみな朝廷の貴臣であった。そしてその門閥を誇りとする点では江左に及ぶものはなかった。しかし時流に乗れず、西晋の末、東晋初頭に江南にわたってくることが遅く、また官にある姻族も多く失っていたため、しばしば中央から排斥されていた。佺期はつねに慷慨切歯し、何らかの有事の際には、その志をのばそうと考えており、そのため殷仲堪にすみやかに立つようしきりに勧めたのである。

 殷仲堪はそこで兵を整えて、楊佺期に水軍五千をひきいさせて先方とし、桓玄を次軍として、自らはそれに続き、その総兵は三万、相次いで東に下っていった。元顕は変を聞き、庚楷にその原因があると知り、父司馬道子の書を彼に送って言った。

 「昔、我とそなたとは、恩情は骨肉のごとく、帳の中でともに飲み、語り合い、非常に親しい間柄であったはず。しかしそなたは今、旧交を捨てて、新たな交わりを結ぼうとしている。王恭がかつてそなたを侮っていたことを忘れたのか?もしその身を彼にゆだねて臣従したとしても、王恭が志を得た後は、必ずそなたを反復の人と見なし、深く信任することはあるまい。その首すら保つことは難しいであろう。ましては富貴などはなおさらではないか?」

 この時、庾楷はすでに王恭の檄に応じて兵馬を集めており、取りやめることは難しい状況であった。そこで返書を送って言った。
 「王孝伯(王恭)がかつて先帝崩御に際して都にやって来た時、相王(司馬道子)は憂え懼れるばかりで何の計もありませんでした。私が事態の急なることを知り、兵を整えてやってきため、孝伯はあえて何も事を起こさなかったのです。昨年のこと、私はまた相王の命を受けて動きました。このように私は相王にお仕えして背くことはございませんでした。しかし相王は、王恭を拒むことができぬとあれば、かえって信任していた王国宝を誅殺されました。それ以来、誰があえて相王のために力を尽くしましょうか?私の兵をもってしても、とても滅びゆくものを助けることなどできません。」

 返書を見て、司馬道子はなすところを知らず、子の元顕に言った。「国家の事は、そなたに任せておる。わしの預かるところではない。」そこで元顕は自ら征討大都督となり、衛将軍王珣(おうじゅん)、右将軍王雅(おうが)に兵を授けて王恭を討たせ、譙王司馬尚之にも兵を授けて庾楷を討たせた。