読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

三顧の礼―『三国志演義』

 先日述べたように、「三顧の礼」については、諸葛亮自身が「出師表」で述べており、正史『三国志』にも記されていますが、具体的な状況については触れておらず、三度諸葛亮のもとを訪れたという簡潔な記述のみです。

 一方、小説『三国志演義』では、諸葛亮の登場および、「三顧の礼」について非常に巧みに詳細に描かれます。

 まず第35回で、劉備はたまたま訪れた水鏡先生司馬徽(しばき)から、天下を安んずることのできる人物として「伏龍」の名を聞かされます。しかしそれが誰であるかはここでは明かされません。その後、単福(ぜんふく)なる謎の軍師が劉備の前に現れ、優れた軍略を発揮して、曹仁(そうじん)らの軍を撃ち破ります。読者にあるいはこれが伏龍であるかと期待させますが、実は彼は徐庶(じょしょ)、字を元直(げんちょく)という「伏龍」の友人でありました。そして彼の口から「伏龍」とは、諸葛亮、字は孔明という人物であると明らかにされます。これは第36回のことであり、ここで初めて諸葛亮の名が現れますが、しかしその本人はまだ登場しません。

 そして第37回、38回と2回にわたって劉備諸葛亮のもとを三度訪れる「三顧の礼」について詳細に描写されます。

 まず1度目は、初めて諸葛亮の住まいを訪れますが、不在でやむなく引き返します。その帰途、諸葛亮の友人崔州平(さいしゅうへい)なる者を諸葛亮と勘違いをする場面もありますが、結局本人とは会えぬまま最初の訪問は終わります。

 続いて2回目は、冬の寒さ厳しく、雪の降りしきる中であり、張飛は不満を訴えますが、劉備は、このような時であるからこそ自分の気持ちが通じるだろうと言い、馬を走らせます。途中、またも友人の石広元(せきこうげん)、孟公威(もうこうい)という者を諸葛亮と勘違いする場面をはさみながら、彼のいおりにやって来ます。 そしてようやく会えたかと思いきや、それは諸葛亮の弟諸葛均(しょかつきん)でした。またもがっかりした劉備諸葛亮に宛てて手紙を残します。その後、帰り際にやってきた諸葛亮の舅の黄承彦(こうしょうげん)をまたも諸葛亮と勘違いしますが、やはり本人には会えず、劉備はそのいおりを後にします。

 そして3度目の訪問です。関羽張飛はこれに大反対しますが、劉備の熱意は変わらず、彼らは三たび諸葛亮のいおりを訪れます。以下、第38回からの引用です。

 三人が屋敷の前まで来て門をたたくと、童子が出て門を開けた。玄徳「面倒だが伝えてくれ。劉備が先生にお目にかかりに参ったと。」童子「今日は先生、家におられますが、今は草堂で昼寝をしておられます。」玄徳「それならば、お伝えするのは少し持ってれ。」関羽張飛は門のところで持たせておき、玄徳はゆっくり入っていった。するとその人は草堂の寝台の上に仰向きに寝ていた。玄徳は拱手したまま階下に立っていた。半時ほどたったが、まだ眠りからさめない。関羽張飛は門の外でしばらく立っていたが、何の物音もしないので、入ってみると、玄徳がまだじっと立っていた。張飛は大いに怒り、関羽に言った。「この先生というのは何と傲慢なやつか。兄者を階下に立させておきながら、わざと寝たふりしやがって起きもしない。おれが後へまわって火をつけるから、起きるか起きないか見てろ。」関羽はそれを何度も引きとめた。玄徳は、二人に重ねて門の外で待っているよう命じた。そして堂の上を見ると、先生が寝返りを打って起きそうに見えたが、また壁の方を向いて寝入ってしまった。童子は来客を告げようとしたが、玄徳は「しばらくまだ起こされるな」と言った。それからまた一時ほど立っていると、孔明はようやく目を覚まし、詩を吟じた。

  大夢(たいむ) 誰か先ず覚(さ)

  平生 我 自ら知る

  草堂に春睡(しゅんすい)足りて

  窓外に日は遅々たり

 孔明は吟じ終ると、また寝返りして童子に言った。「誰か俗人がやって来たのか?」童子が「劉皇叔が長い間お待ちになっています」と答えると、孔明はすっと起ち上がり、「なぜ早く知らせない。着がえをせねばなるまい」と言って奥へ入っていった。それからまた半時ほどして、ようやく衣冠を整えて迎えに出た。玄徳が見ると、孔明は身のたけ八尺、顔は冠の玉のごとく、頭には綸巾(かんきん)をいただき、身には鶴氅(かくしょう)の衣をつけて、まことの仙人のようであった。

 こうしてようやく諸葛亮に会えた劉備は、彼から「天下三分の計」を聞かされ、ぜひとも自分を助けてほしいと訴えます。初めは断っていた諸葛亮ですが、劉備の熱意に動かされ、仕えることを決意します。こうして『三国志』の物語は新たな展開を迎えることになります。

 この『三国志演義』35~37回は、「伏龍」=「諸葛亮」の名が初めて現れ、そして「三顧の礼」へとつながっていくものの、なかなか本人がその姿を現さず、読者にいやがおうにも期待を抱かせます。

 これもまた『三国志演義』の描写の妙と言えるでしょう。