三顧の礼

  天下三分の計を示して劉備の信頼を得た諸葛亮ですが、この両者の出会いは三顧の礼のエピソードでよく知られています。

 諸葛亮、字は孔明は、もともと琅邪郡陽都県の人でしたが、荊州に移住し、その地で自ら農耕するなど、隠者の生活を送っていました。正史『三国志』蜀書・諸葛亮伝によれば、そこに彼の話を徐庶から聞いた劉備が訪れます。

時に先主 新野に屯す。徐庶 先主に見(まみ)え、先主 之を器とす。先主に謂ひて曰く、「諸葛孔明なる者は、臥龍なり、将軍 豈に之に見ゆるを願はんや」と。先主曰く、「君 与倶(とも)に来れ」と。庶曰く、「此の人 就(ゆ)きて見ゆべきも、屈し致すべからざるなり。将軍 宜しく駕を枉(ま)げて之を顧みるべし」と。是に由りて 先主 遂に亮に詣(いた)ること、凡(およ)そ三往、乃ち見ゆ。

 当時、先主は新野に駐屯していた。徐庶が先主に会い、先主は彼を高く評価した。徐庶は先主に言った、「諸葛亮という者は、臥竜(眠っている竜)です。将軍は彼に会いたいと思われますか」と。先主は言った、「君が一緒に連れてきてくれ」と。徐庶は言った「この人は、こちらから行って会うことはできますが、無理に来させることはできません。将軍自ら車をまげて訪問されるのが良いでしょう」と。そこで先主はそのまま諸葛亮のもとを訪れること三度、ようやく会うことができた。

 劉備が自ら諸葛亮のもとを三度訪れ、ようやく会うことができたとあり、これがいわゆる三顧の礼と呼ばれるものです。しかし裴松之注に引く『魏略』という書によると、諸葛亮の方から劉備を訪ねたことになっています。しかし諸葛亮が若年であるため、劉備ははじめ彼を軽んじていましたが、諸葛亮の話す計略を聞いてその才能に感心し、上客として迎えたとあります。

 このように当時からその出会いについては諸説あったようです。

 しかし、諸葛亮自身の手になる「出師表」には以下のようにあります。

先帝 臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈し、三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。

 先帝は私の身分が低いのにも関わらず、みだりに車を曲げて身を低くして、三度も私を草のいおりにお訪ねになり、漢室復興のことを問われました。

 この「出師表」は、劉備の死後、その子である後主劉禅に奉った文で、劉備、および劉禅に対する忠誠心にあふれ、これを読んで泣かないものは忠臣ではないとまで言われた千古の名文です。そしてそこにはっきりと先帝(劉備)が、「三たび臣を草廬の中に顧み」(三顧臣於草廬之中)と述べており、ここに「三顧」の語が出てきます。

 諸葛亮自身の言葉であることを考えても、「三顧の礼」というのは、事実としてあったことと見て良いでしょう。