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南史演義 巻2-4

南史演義

 孫恩は会稽を根拠地とし、自ら征東将軍と称し、むりやり人々を官職につけ、従わないものは、一家皆殺しにした。そのため死者は十人中七、八人にものぼった。その党派を「長生」と号し、四方に兵を出し、諸県令を殺してその肉を塩漬けにして、彼らの妻子に食らわせ、食べないものは、みな八つ裂きにした。通過する町は、ことごとく略奪・放火された。ただ強壮な男子のみを軍に編入させ、女や年寄り、子供はみな水中に投じたが、その際、「お前たちは喜ばしいことに先に仙堂に登るのだ」と言うのであった。

 この時、各地で暴威を奮っていた者たち、呉郡の陸環(りくかん)、呉興の邱尪(きゅうおう)、臨海の周冑(しゅうちゅう)、永嘉の張永(ちょうえい)、および東陽県、新安県等の暴徒は、みな結集して役人を殺し、孫恩に呼応した。よって三呉八郡は、ことごとく賊の支配するところとなり、朝廷は大いに恐れ、劉牢之(りゅうろうし)に討伐を命じたのであった。

 そこで劉牢之は精鋭を率いて、各地で転戦しつつ進み、賊将許允之(きょいんし)等を撃ち破った。当たるところすべてに勝利を収め、まっすぐ銭塘にいたり、諸県の地を回復しようと謀った。そこで劉牢之は劉裕に言った。「賊徒はなお勢い盛んだが、その虚実はまだよく分かっていない。卿はひそかに行ってこれを探ってくれ。」

 劉裕は即座に命に従い、数十騎をひきいて偵察に向かった。その頃、孫恩は官軍が迫っているのを聞き、大将姚盛(ようせい)に歩騎五千を率いさせ、先行して敵を迎え撃たせようとしていた。劉裕らがちょうど小休止をしていたとき、たちまち賊軍が山野を覆い尽くして迫ってくるのを見た。兵たちは怖れて撤退しようとしたが、劉裕は言った。「賊は多く、我が方は少ない。今逃げれば、彼らは強力な騎兵で追撃してこよう。我らはたちまち全滅だ。ここは戦うにしくはない!逃げて死ぬよりは、戦って死ぬべきだ!」そのまま太刀をふるって、まっすぐ突き進み、兵たちもそれに従い、数百人の賊を斬り殺した。

 賊は初め西から敵の援軍がやってくるのではないかと疑い、敵を見ると逃げ出し、備えを怠っていた。やってきた将の勇猛なのを見、姚盛は兵を指揮して迎え撃った。劉裕に従っていた騎兵はみな殺されたが、彼は独り身を挺して勇戦した。しかしにわかに馬がつまづき、劉裕は崖下に落ちてしまった。賊兵は崖をのぞきこみ、長槍で下を刺してみたが、劉裕は大声をあげて、一躍して上がってきたため、賊は人馬みな驚き、数歩退いた。劉裕は走り出して、また数十人を斬り殺した。姚盛は大いに怒り、諸将に命じて周りを囲ませ、逃げられないようにした。劉裕はまったくひるむ色もなく、死を覚悟して力戦した。

 あわや危急存亡の時、たちまち一隊の軍馬が大声をあげて突入してきた。その勇戦ぶりは比するものがないほどであり、賊兵はばらばらになって四散し、殺したり捕らえたものは数え切れないほどであった。劉裕はようやく敵の重囲を脱することができたが、やってきた将を見ると、それは劉敬宣(りゅうけいせん)であった。

 劉裕「弟が来援してくれなければ、私の命も終わっていただろう。」敬宣「私は軍中にありましたが、兄者がなかなか帰ってこないのを訝しく思い、兵を率いて探しに来たところ、前方で砂塵が立ちのぼり、鬨の声があがっていたので、賊兵が猖獗をきわめ、兄者が困窮しているのではと思い、急いでやって来たのです。すると兄者は独り太刀を振るって数千人と戦っているではありませんか。兄者の武勇は、かの関羽張飛といえども及びますまい。今、賊はすでに敗れ去りました。兄者は陣地に戻って少し休まれませ。」劉裕「賊の心胆はすでに落ちていよう。ここは速やかに追撃すべきだ。破竹の勢いは、失うべきではない。」

 敬宣はこれに従い、そのまま兵を進めた。賊は劉裕がやってくるのを見ると、恐れ怯えない者はなかった。そして連戦連勝を重ね、ついに山陰を回復し、劉牢之はその報告を得て大いに喜んだ。

 ここで話はそれるが、孫恩が会稽を破った当初は、八郡が呼応しており、彼は部下たちに言った。「天下が無事におさまったら、諸君とともに朝服をまとって都建康に参ろう。」やがて劉牢之の兵が迫ってくるのを聞くと、やや恐れを抱き、「私は浙江以東の地に割拠して、かの春秋時代の越王句踐(こうせん)のようになれないこともあるまい」と言っていた。劉牢之の兵が銭塘を過ぎ、諸賊を討ち滅ぼし、しだいに郡県を回復してくると、孫恩は大いに恐れて言った。「私は逃げるのを恥としない。今はしばらくこれを避けるとしよう。」そして男女二十余万の民衆を駆り立て東に走り、また海上の島に逃れた。こうして国土はことごとく回復されたのであった。

 人々は皆、劉牢之が会稽に駐屯し、晋朝は第一の重臣としてこれを遇するであろうと考えた。しかし詔によって謝琰(しゃえん)が会稽内史となって浙東に駐屯し、劉牢之はまた江北に還っていった。