諸葛亮の「天下三分の計」

 諸葛亮、字は孔明。『三国志』を題材とした作品の中ではしばしば天才軍師として描かれます。敵の心理や計略を読み、その裏をかくその軍略は、読む者を非常に興奮させるものでしょう。しかしそれはあくまで『三国志演義』など創作の物語における諸葛亮像であり、実際の諸葛亮は軍師というより、むしろ優れた政治家、政略家であったと思います。その一端がうかがえるのが何と言ってもいわゆる「天下三分の計」です。

 少々長いですが、引用します。

 董卓より已来(いらい)、豪傑 並びに起こり、州に跨がり郡を連ぬる者は勝(あ)げて数ふべからず。曹操袁紹に比すれば、則ち名は微にして衆は寡(すくな)し。然れども 操 遂に能く紹に克(か)ち、弱を以て強と為るは、惟だ天の時のみに非ず、抑(そもそ)も亦た人謀なり。今 操 已(すで)に百万の衆を擁し、天子を挟(さしはさ)みて諸侯に令す。此れ誠に与(とも)に鋒を争ふべからず。孫権 江東を拠有し、已に三世を歴(へ)、国 険しく民 附(つ)き、賢 能く之が為に用ひらる。此れ以て援けと為すべくして図(はか)るべからざるなり。荊州の北は漢・沔(べん)に拠(よ)り、利は南海に尽き、東は呉会に連なり、西は巴蜀に通ず。此れ武を用ふるの国なるも、而るに其の主は守る能はず。此れ殆(ほとん)ど天の将軍に資する所以(ゆえん)なり。将軍 豈に意有らんや。益州は険塞にして、沃野千里、天府の土、高祖 之に因りて以て帝業を成す。劉璋は闇弱にして、張魯 北に在り、民 殷(さか)んにして 国 富むも存恤(そんじゅつ)を知らず、智能の士 明君を得んことを思ふ。将軍 既に帝室の胄(ちゅう)にして、信義 四海に著(あら)はれ、英雄を総攬し、賢を思ふこと渇くが如し。若(も)し荊益を跨有(こゆう)し、其の巌阻(がんそ)を保ち、西に諸戎を和し、南に夷越を撫(ぶ)し、外に孫権と結好し、内に政理を修め、天下に変有らば、則ち一上将に命じて荊州の軍を将(ひき)ゐて以て宛洛に向はしめ、将軍は身(みづか)益州の衆を率ゐて秦川を出づれば、百姓 孰(たれ)か敢へて簞食壺漿(たんしこしょう)もて以て将軍を迎ふる者ならざらんや。誠に是(かく)の如くんば、則ち覇業は成るべく、漢室は興すべし。

 董卓以来、豪傑が次々と蜂起し、州にまたがり郡を連ねてのさばる者は数え上げられないほどでした。曹操袁紹に比べますと、名声は小さく、兵力も少ないものでした。しかし曹操が結局は袁紹に打ち勝って、弱者から強者になったのは、ただ天の時によるだけでなく、人の謀によるものです。今、曹操はすでに百万の軍を擁し、天子を擁立して諸侯に号令をかけています。これはとても武力で争うことはできません。孫権は、江東の地を押さえ、すでに三代を経ており、国は堅固で民はなつき、賢者は国のためによく用いられています。これは味方とすべきであって、敵対し謀をかけるべきではありません。荊州の地は、北は漢水・沔水にまたがり、そこからあがる利益は南海に達するほどで、東は呉郡・会稽郡に連なり、西は巴郡・蜀郡に連なっています。これは武力を発揮すべき土地でありますが、その主(劉表)はとてもこれを守ることはできません。これこそ天が将軍に与えられたものといえるでしょう。将軍にはその意志がありますか。また益州は堅固な要害の地で、豊かな土地が千里に広がり、天然の府庫というべきもので、高祖劉邦はここを基に帝業を成し遂げました。(益州の)劉璋は暗愚で、張魯が北にひかえており、民は多く国は豊かでありますが、その主は民を慰め憐れむことを知らず、智能の士は明君を得たいと願っています。将軍はすでに帝室の血筋で、その信義は四海に知られており、英雄たちを掌握し、渇いた者が水を欲しがるように賢人を求めておられます。もしこの荊州益州を跨がって支配し、その要害の地を保ち、西の蛮族をなつけ、南の異民族を慰撫し、外には孫権とよしみを結び、内は政治を修められ、天下に変事があれば、すなわち一人の上将軍に荊州の軍をひきいて宛・洛に向かわせ、将軍は自ら益州の軍をひきいて秦川に出て行けば、百姓たちもどうして食事と水をもって将軍を迎えないことがありましょうか。まことにこのようにすれば、覇業は成就し、漢王朝は復興することでしょう。

 百万の兵を有し、天子を擁立する魏の曹操は、武力ではまともに対抗できないこと、江東を所有し、三代を経た呉の孫権は味方とすべきであることを主張し、曹操孫権の力の及んでいない荊州益州(蜀)を手に入れるべきことを唱え、内政に努めつつ、天下に変事があれば、荊州から洛陽方面へ、益州から長安方面へと攻め寄せれば、漢王朝復興という覇業は成就できると述べています。

 当時、諸葛亮荊州の片田舎で、なかば隠者のような農耕生活をしており、人と交わることもあまりなかったとされます。にもかかわらず、当時の天下の情勢を非常によく把握している様子がうかがえます。

 今でこそテレビや新聞、インターネットなどで世界の情勢でも簡単に知ることができますが、かつては今自分たちがいる時代がどのような状況にあるのか、それを理解するというのは極めて困難でした。まして後漢末という激動期の渾沌とした時代、天下の趨勢をここまで正確に把握し、冷静に分析し、劉備にとって最もふさわしいと思われる方策を示しすことができたのは、やはり諸葛亮が政略家として傑出した人物であったためではないでしょうか。

 諸葛亮というと、小説等における派手な軍略にしばしば目を奪われがちですが、この「天下三分の計」こそ、実際の諸葛亮の真骨頂を示すものと思います。