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南史演義 巻2-2

 その頃、東莞(とうかん)に臧俊(ぞうしゅん)という者があった。郡の功曹であり、人の相を見るのに優れていた。愛親という一人娘があり、その母叔孫氏は、月を呑む夢を見て彼女を妊娠した。容貌は端正で美しく、立ち居振る舞いもしとやかであった。臧俊はその娘を大切にし、後日必ず天下の母となるものと思い、軽々しく人に嫁がせなかった。よって二十歳になってもまだ独り身であった。

 ある日、臧俊は北府にやって来たが、劉裕を見てその人物を認め、そのまま彼の家を訪ね、言った。「君はまだ妻をめとっていないとか。我が家に娘がいるのだが、どうか君に仕えさせてはくれまいか。」劉裕は言った。「私はまだ何の功業もあげていませんが、天下に馳せる志を持っています。妻をめとる余裕はありません。」劉裕の母が帳の向こうでそれを聞いており、劉裕を呼んで言った。「臧氏のお嬢さんは非常に賢いと聞いています。お受けするべきです。」結局、劉裕はその娘をめとることにした。即ちこれが後の武敬臧(ぶけいぞう)皇后である。

 この時、北府の人材は多士済々であり、例えば劉毅(りゅうき)、孟昶(もうちょう)、高雅之(こうがし)、諸葛長民(しょかつちょうみん)といった者たちは当時の俊英であったが、みな喜んで劉裕と交流していた。劉裕はますます多くの人々と心を通わせ、その意気もきわめて高く、ゆえに遠近の士は、みな彼に心を寄せていったのである。

 ある日、劉牢之が劉裕を呼んで言った。「三呉の地では、近頃、海賊どもが乱を起こし、役所がみな襲われていると聞いている。わしはこれらを討伐したいと思うが朝命がない。どうすれば良いだろうか?」劉裕は言った。「上表文を奉り、すみやかに討伐すべきと思います。」しかし上表文を奉らないうちに、にわかに詔が下った。それは劉牢之を都督呉郡諸軍事に任じ、兵を率いて乱を討伐すべし、というものであった。

 劉牢之は詔を受けて大いに喜び、すぐに諸将を集め、命令を下して言った。「軍が勇猛であるか臆病であるかは、まさ先鋒にかかっている。誰かこの任に当たる者はいるか?」劉裕は声に応じて進み出て、先鋒とならんことを願い出た。劉牢之は即座に彼を先鋒に命じ、兵三千を率いさせ、先がけて出陣させた。その後、大軍が後に続いた。

 ところでこれらの海賊はどこから起こったのであろうか?

 これより先、琅邪の人で孫泰(そんたい)という者がおり、銭塘の杜子恭(としきょう)に師事していた。子恭は不思議な術を持っていた。かつて子恭は人から瓜を切る刀を一本借りたことがあった。持ち主が返すよう求めたが、子恭は「すぐに返ってきますよ」と言うだけであった。その後、刀を貸した者が嘉興(かこう)に行った際、魚が水の中から躍り出て船に飛び込んできた。そしてその魚の腹を割くと一本の刀が出てきたが、それは子恭に貸した刀であった。このような霊力がさまざまあり、故に人々はみな彼を信奉したのである。

 杜子恭が亡くなると、弟子の孫泰がその術を受け継いで民衆をまどわすようになり、その教えを信奉する者は財産を尽くし、娘や息子を差し出して福禄を求めていった。王珣(おうじゅん)が銭塘太守となった際、孫泰は妖術で人々をたぶらかした罪を問われ、広州に流罪となった。しかしその後、王雅(おうが)が彼の術を気に入って孝武帝に薦め、「これこそ心性を養う方法でございます」と申し上げた。孝武帝は孫泰を召して話を聞いて非常に喜び、内職を授け、後に新安太守に任じた。しかし孫泰は晋の命運も終わろうとしていると考え、信徒の民衆に呼びかけ、巨億の財貨を集め、謀反をたくらんだ。三呉の人々が多くこれに従ったが、会稽(かいけい)内史の謝輶(しゃゆう)がその罪を告発したため、事が起こる前に朝廷はこれを誅殺した。

 しかし甥の孫恩(そんおん)は海上の島に逃れた。民衆は、孫泰が実は死んでおらず、天に昇って仙人となったと信じており、島にいる孫恩を援助していた。孫恩はそこで亡命者百人余りを集めて、しばしば海辺に出没するようになった。その頃、その海辺の土地は飢饉が起こっており、盗賊も現れるようになっていた。孫恩は民心の乱れに乗じて、その党派をひきいて島から陸にわたり、上虞県を攻め、その県令を殺した。そして十日間ほどで、数万の衆を集め、さらに会稽郡へと侵攻した。