袁紹と曹操

 袁紹、字は本初。四世三公(四代にわたり官職の最高位である三公を出した)の名門袁氏の出身であり、後漢末の群雄の一人として冀州を中心に中国北部を支配し、一時は曹操をしのぐ勢力を誇ります。しかしその性格は名門意識が高いばかりで、猜疑心が強く、優れた人材を用いることができず、結局は曹操に滅ぼされてしまいます。

 かつて袁紹の勢力が絶頂だった頃、曹操自身、袁紹を以下のように評しています。

吾 紹の人と為(な)りを知る。志は大なるも智は小にして、色は厲(はげ)しきも胆は薄く、克(か)つを忌みて威少なく、兵は多きも分画は明らかならず、将は驕(きょう)にして政令は一ならず。土地は広しと雖も、糧食は豊かなりと雖も、適(まさ)に以て吾が奉と為すに足るなり。

 私は袁紹の人となりを知っている。彼は志は大きいが智恵は少なく、顔つきは厳しいが胆は小さく、自分より優れたものを忌み嫌って威厳もなく、兵は多いが分別がはっきりしておらず、将軍はおごりいばっているが命令に一貫性がない。その領土は広く、糧食も豊かであるとはいえ、それらはすべて私への捧げものとなるだけだ。

 袁紹という人物を見事に言い当てた評価と言えるでしょう。

また、正史『三国志』にも『三国志演義』にない話ですが、以下のようなものがあります。

 曹操袁紹とともに若い頃、好んで遊侠の振る舞いをしていた。ある時、新婚の家を見つけ、その庭に忍び込み、大声で「泥棒がいるぞ!」と叫んだ。家の者がみな飛び出してきた隙に、家の中に入り、刀を抜いて花嫁を略奪した。そして袁紹と一緒に逃げたが、途中、袁紹はいばらの中にはまって抜けられなくなってしまった。すると曹操はまた大声で「泥棒はここにいるぞ!」と叫んだ。袁紹はあわてて必死になっていばらから抜け出し、ようやく助かった。

 これは5世紀頃編纂された『世説新語(せせつしんご)という書に収められた説話です。いかにも小説じみた話で事実かどうかは極めて怪しいところですが、いざというときに失敗する袁紹と、窮地にあって機転を利かす曹操という両者の性格をよく表すエピソードとして知られています。

 こういった話を見ても、結局のところ、袁紹はとうてい曹操にかなう人物ではなかったのでしょう。