曹操の風貌

 以前のエントリーで、現在では曹操のイメージが多様化しているとして、ネット上のさまざまな曹操像を紹介しました。では実際の曹操はどのような風貌だったのでしょうか。

 まず小説『三国志演義』の記述を見てみると、その登場シーンは以下の通りです。

先頭に出てきたる一人の大将、身の丈は七尺(約169センチ)、目は細くひげは長く、官は騎都尉、沛国譙郡の人で、姓は曹、名は操、あざなは孟徳であった。

 一方、正史『三国志』には、実は曹操の容貌に関する記述はありません。

 ちなみに劉備に関しては、正史『三国志』には以下のようにあり、

身の長七尺五寸、手を垂るれば膝に下り、顧みれば自ら其の耳を見る。

 『三国志演義』には、

身の丈七尺五寸(約182センチ)、耳は肩まで垂れ下り、両手は膝の下まで届き、目は自分の耳を見ることができ、顔は冠の玉のごとく白く、唇は紅をつけたよう。

とあります。多少追加された部分もあるようですが、正史『三国志』の記述をベースとしていることが分かります。

 そもそも中国の創業の君主は、容貌も非凡であることが多いです。例えば漢の高祖劉邦などは『史記』の中で以下のように描かれています。

隆準にして龍顔、須髯美しく、左股に七十二の黒子有り。

 このように史書においては、王朝の創始者たる英雄は、容貌もまた特別なものがあると記されるのが一般的です。

 しかし魏の創始者である曹操の容貌について、正史『三国志』は全くと言って良いほど触れていないのです。そして曹操の容貌については、実は『世説新語』という書に以下のような話があります。

世説新語』容止篇

魏武 将に匈奴の使に見(まみ)えんとす。自ら以(おもへ)らく 形陋にして、遠国に雄たるに足らずと。崔季珪をして代はらしめ、帝は自ら刀を捉(と)りて床頭に立つ。既に畢(をは)り、間諜をして問はしめて曰く、「魏王は何如(いかん)」と。匈奴の使 答へて曰く、「魏王は雅望 常に非ず。然れども床頭にて刀を捉る人、此れ乃ち英雄なり」と。魏武 之を聞き、追ひて此の使を殺さしむ。

 魏の武帝曹操)がある時匈奴の使者と会見しようとした。しかし自分では容貌がみすぼらしく、遠国を威圧するには不十分だと考えた。そこで崔季珪という者に身代わりをさせて、帝は自ら刀を持って椅子の側に立っていた。会見が終わると、間者をやって「魏王はどうだったか」と尋ねさせた。すると匈奴の使者は答えた。「魏王は非常に優れた容貌でした。しかし椅子の側で刀を持っていた人、彼こそ英雄です」と。武帝はこれを聞いて、追っ手を差し向けてこの使者を殺させた。

 この『世説新語』は、宋の劉義慶によって編纂されたもので、後漢から東晋までの著名人の逸話・伝説を記録したものですが、このエピソードは非常に興味深いものだと思います。さらにこの『世説新語』には梁の劉孝標の注釈が付されていますが、そこには『魏氏春秋』という書を引用し、以下のように記しています。

武王は姿貌短小なるも、神明英発なり。

 正史『三国志』には全くその描写がないこと、そして『世説新語』、『魏氏春秋』などの記述を合わせて考えると、曹操の容貌が実際にはどのようなものであったかは推して知るべしと言えるでしょう。

 英雄が必ずしも威風堂々たる外見ではないことは、例えば西洋ではナポレオンなどの例もあり、珍しいことではないのかも知れませんが、そういった人を主人公とした物語を描く場合にはいろいろと難しいのでしょうね。