南史演義 巻1-1

第一巻

 晋室 将に亡びんとして廊廟乱れ 宋家 運に応じて帝王興る

 晋の太興元年(280)、武帝司馬炎によって中国は統一され、三国時代は終わりを告げる。しかしその平和な世もつかの間、武帝の死後、後を継いだ恵帝は国事を顧みず、その妃賈后がさらに政治を乱し、皇室の中で争いが起こり、さらに群雄が四方に割拠し、天下はたちまち瓦解していった。

 そんな中、琅邪王司馬睿(しばえい)は戦乱を避けて江南に渡り、人々を収集した。王導(おうどう)が政治を司り、王敦(おうとん)が軍事を担い、さらに江東の名士賀循(がじゅん)、顧栄(こえい)といった人々が付き従い、司馬睿を奉じて、建康にて即位させ、東晋の基を開いたのであった。これが晋の元帝である。後に王敦は謀反をたくらみ、元帝はそれを憂いつつ、在位六年で崩じた。

 子の明帝が立った頃、ちょうど王敦が没し、その党派も皆誅せられ、大乱は平定された。明帝は在位三年で崩じ、太子が即位した。これが成帝である。庾亮(ゆりょう)、王導、卞壺(べんこ)らが明帝の遺命を受け、新帝を支えていた。しかし歴陽で蘇峻(そしゅん)が反乱を起こし、その兵は都へ迫り宮城へとなだれ込んだ。卞壺は戦死し、庾亮も没し、帝位も危うくなったが、幸いにも温嶠(おんきょう)、陶侃(とうかん)らが義兵を起こして都に入り、内乱を平定した。蘇峻は敗死し、晋室は復興した。成帝の在位は十七年におよび、その間、国家は事もなく平穏であった。臨終に際して、帝の二人の子はまだ幼かったので、帝の弟琅邪王(ろうやおう)司馬岳を迎え後継ぎとした。これが康帝である。康帝は二年で世を去り、太子が即位した。これが穆帝である。

 さてその頃、桓温(かんおん)なる者が都督荊梁四州諸軍事として、強兵を従え、遠く荊州から朝政を指図していた。さらに蜀に出兵してその地を平定し、臨賀郡公に封ぜられ、その威名は大いにふるい、朝廷はこれを畏れていた。当時、殷浩(いんこう)も盛んな名声があり、帝は彼を招いて腹心とし、桓温に対抗しようとした。しかしこの殷浩はただ虚名のみ高く、実際には全く役には立つ者ではなかったのある。出兵してはしばしば敗れたため、桓温は上表して彼を退けた。それによって大権はすべて桓温に帰するようになった。穆帝が崩ずると、子が無かったので、成帝の長子司馬丕(しばひ)を立てた。これが哀帝である。哀帝は在位四年で崩じ、また子が無く、弟の琅邪王司馬奕(しばえき)が立った。これが廃帝である。桓温には簒奪の心があり、帝には若い頃から身体麻痺の病があることを誹謗した。また帝のお気に入りの相龍(しょうりゅう)、計好(けいこう)、朱霊宝(しゅれいほう)といった者たちが宮廷に自由に出入りして宿泊し、宮中は大いに乱れていた。帝の妃に田氏、孟氏という二美人があり三子を生んだが、みな帝の子ではなかったのである。朝廷は宗室がこれ以上乱れることを危惧し、ついに帝を廃して海西県公とし、会稽王(かいけいおう)司馬昱(しばいく)を迎えて登極させた。これが簡文帝である。

 帝は容姿は美しく、立ち居振る舞いも優れており、心性もおだやかであったが、経世済民の才略は無かった。そのため謝安はこの天子を恵帝と同じようなもので、清談が多少優れているだけだと思っていた。在位二年、常に廃されることを怖れており、にわかに病にかかり崩じた。太子司馬曜が即位した。これが孝武帝である。その時、桓温はすでに死んでおり、弟の桓沖が後を継いだが、皇家に忠誠を尽くすようになっていた。謝安が宰相に任じられ、朝政をつかさどった。謝安は大いに度量があり、賢人を選び、有能な者を取り立て、それぞれに適した役職に当たらせ、内外にその治を称えられた。

 太元八年(383)、前秦の苻堅(ふけん)が八十七万の兵を発して侵攻し、淝水(ひすい)に陣を敷いた。旗や太鼓が千里に連なって絶えず、朝廷は大いに恐れおのおいた。しかし謝安は動揺する様子もなく、謝玄、謝石に命じて、八万の兵を率いこれを防がせた。将士も奮い立って勇戦し、秦軍を大いに撃ち破った。死者は野をおおい、秦軍は風の音や鶴の声を聞いても晋兵が迫ってきたのかと思い、心胆が裂けるほどおびえながら敗走した。この勝利によって、東晋の国勢は固まったのである。人々はみな、このたびの謝安の功績は、国家を再建させたも同じだと考えた。しかし彼らは思いもしなかったのである。良臣が世を去り、君主もしだいに奢侈を好むようになり、事変が徐々に起ころうとしていようとは。

 さて孝武帝は、即位当初は清明な政事をおこない、賢良を信任し、大いに名君たる度量があった。しかし酒に溺れだすと、政事を顧みなくなり、同母弟の司馬道子(しばどうし)を琅邪王に封じ、国事をことごとくゆだねた。道子もまた酒を好み、晩には帝とともに飲むことを楽しみとしていた。道子は政治を中書令の王国宝にまかせるようになった。左右の近習も争ってその権威をもてあそび、賄賂が横行し、朝廷は日に日に傾いていった。尚書令の陸納はあるとき宮門を眺めて言った。「このよき家を、子どもが壊そうとしているのか。」群臣は上疏して盛んに諫めたが、帝はまったく省みなかった。

 王国宝はすでに朝政を取り仕切り、まわりを思うままに服従させ、その権勢は朝野を傾けるほどであった。しかし全く才略はなく、ただもっぱら道子に媚びへつらうばかりであった。道子が望むことは、すべてその意に沿って迎合し、このため道子の寵愛は日に日に深くなっていった。ある日、道子が何か憂えている様子であったので、国宝はその理由を尋ねた。

 道子は言った。「我が家には館や部屋は多いのだが、遊覧して楽しむところがないのが残念でな。なかなか思いを発散させることができんのだ。」すると国宝「簡単なことです。趙牙(ちょうが)という役人が匠の才能があります。そいつに東の館の方に遊覧するところを作らせれば、朝に夕に観賞して楽しむことができますよ。」

 そこで趙牙に、東の館の外に数里の土地を開いて、石を重ねて高さ百余丈(3~400メートル)の山をつくらせた。さらに長い堀をめぐらせ、竹や木を植え、高台をその中に建てた。また堀に沿って建物を築き、そこに宮人に酒屋を開かせた。道子は左右の近臣と船に乗ってそこに行き、宴会をしては楽しんでいた。

 ある日、帝が彼の館に行幸し、それらを見て言った。「邸内に山があるのは遊覧するには非常に良い。しかし修飾が過ぎて、人や物を消耗しすぎてはいかん。天下に倹約を示すものではないからな。」道子は黙ったまま答えなかった。帝が宮殿に還ると、道子は趙牙に言った。「お上がもしこの山が人の力で造られたことを知ったならば、おまえは死なねばなるまい。」趙牙「王(道子)がおられますのに、どうして私が死ぬことなどありましょうか。」造営はますます盛んになり、帝はこのため彼を嫌うようになった。

 王国宝は、道子の権力をさらに強くしよう考え、群臣に奏上させて、道子を大丞相の位につけ、仮黄鉞(軍の統帥権を指す)を授け、特別な礼を加えようとした。侍中の車胤(しゃいん)はそれを拒んで言った。「その昔、周の成王は若年のため叔父の周公を丞相とし、政治をゆだねました。それは成王が周公を尊んだゆえんでもあります。今、主上は正しく天子の位にあり、それは成王の比ではありません。相王(道子)が丞相の地位にあって、自らを周公になぞらえることができるのですか。」この議はそこで終わりとなった。帝は後にこれを聞いて大いに怒り、車胤の見識を高く評価した。

 また道子は太后に寵愛され、内宮にも招かれて、待遇は家族と変わらないようであったが、つねに酒を飲み、太后の寵をたのんで、帝に対して礼を失していた。そのため帝はこれを斥けようとしたが、太后の意を慮り、憤懣を抱きつつもできなかった。