隋宮の春

 隋宮の春    杜牧
龍舟東下事成空   龍舟 東に下るも 事 空(くう)と成る
蔓草萋萋満故宮   蔓草(まんそう) 萋萋(せいせい)として 故宮に満つ
亡国亡家為顔色   国を亡(ほろ)ぼし家を亡ぼすは 顔色が為なり
露桃猶自恨春風   露桃 猶ほ自ら春風を恨む

 煬帝は龍舟を浮かべて東に下って遊んだが、それも今はもうない。はびこる草が盛んに茂って古い宮殿に満ちあふれている。国も家も滅びたのは、煬帝が容色に溺れたがため。咲き誇る桃の花さえも、春風の中で恨みを抱いているようだ。

※[龍舟]天子の乗る舟をいう。四層からなる巨大な舟で、煬帝はこれを大運河に浮かべて往来し、日夜歓楽にふけったという。 [成空]すっかりなくなること。 [蔓草]はびこる草。 [萋萋]草が盛んに茂るさま。 [顔色]容貌、容色。ここでは美女をいう。 [露桃]もとは恵みの露をうけて生ずる桃の樹をいう。ここでは咲き誇る桃の花。また「露」は天子の恩寵の意味もあるため、「露桃」は天子の寵愛を受けた美女をイメージさせる。

 

 隋の煬帝をテーマとした詩です。
 煬帝(在位604~618)は、本名は楊広、隋の初代皇帝楊堅(文帝)の次子として生まれます。隋が建国されると晋王となりますが、後に腹心の楊素らと謀り、文帝への讒言によって兄の皇太子楊勇を廃嫡させ、皇太子となります。604年、文帝の崩御に伴い即位しましたが、崩御直前に文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布しました。
 即位した煬帝は奢侈を好み、荒淫にふけります。また百万の民衆を動員し、華北と江南をつなぐ大運河を建設しました。対外的には積極的に領土拡大につとめ、612年には高句麗遠征を行いました。この遠征は三度に渡って実施されましたが結局失敗に終わり、これにより隋の権威は大いに失墜します。その後、各地で反乱が発生し、国内が大いに乱れると、煬帝は難を避けて江都(揚州)に逃れました。江都に至った煬帝は、次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送るようになり、618年、臣下である宇文化及らによって殺害されました。

 

 この杜牧の詩は、容色に溺れた煬帝を批判しつつ、かつて栄華を極めた国(隋)が滅んだことに思いを馳せる懐古詩となっています。すべてが失われたあともなお変わらぬ自然(蔓草・露桃・春風)を描くことで、栄枯盛衰の無常観がより際立っていると言えるでしょう。

 

白頭を悲しむ翁に代す

 代悲白頭翁  白頭を悲しむ翁に代す  劉希夷

洛陽城東桃李花  洛陽の城東 桃李の花
飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去りて 誰(た)が家にか落つ
洛陽女児好顏色  洛陽の女児 顔色を好み
坐見落花長歎息  坐(そぞ)ろに落花を見て 長く歎息す
今年花落顏色改  今年 花落ちて 顔色 改まり
明年花開復誰在  明年 花開きて 復た誰か在る
已見松柏摧為薪  已に見る 松柏 摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為るを
更聞桑田変成海  更に聞く 桑田 変じて海と成るを
古人無復洛城東  古人 復た洛城の東に無く
今人還対落花風  今人 還(ま)た落花の風に対す
年年歳歳花相似  年年歳歳 花 相ひ似たり
歳歳年年人不同  歳歳年年 人 同じからず
寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁
此翁白頭真可憐  此の翁 白頭 真に憐れむ可し
伊昔紅顏美少年  伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
公子王孫芳樹下  公子王孫 芳樹の下
清歌妙舞落花前  清歌妙舞 落花の前
光禄池台開錦繍  光禄の池台 錦繍を開き
将軍楼閣画神仙  将軍の楼閣 神仙を画く
一朝臥病無相識  一朝 病に臥せば 相ひ識る無く
三春行楽在誰辺  三春の行楽 誰(た)が辺にか在る
宛転蛾眉能幾時  宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ
須臾鶴髪乱如糸  須臾(しゅゆ)にして 鶴髪 乱れて糸の如し
但看古来歌舞地  但だ看る 古来 歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲  惟だ有り 黄昏に鳥雀悲しむ

 

 洛陽の城の東に桃や李の花が咲いている。あちこちに飛び散って誰の所に落ちていくのか。洛陽の女子は容色を大事にし、何とはなしに散りゆく花を見て長くため息をついている。今年花が散って容色も衰えてしまう。来年花が咲いたとき誰が生きているだろうか。松柏がくだかれて薪となったのを目にし、桑畑も海に変わってしまった話を聞いている。この洛城の東で(同じように花を見たであろう)古人はもはやなく、今の人がまた(古人と同じように)花を散らす風に向きあっている。年々歳々花は同じように咲いているが、歳々年々その花を見る人は同じではない。今が全盛の若者達にひとこと言いたい。死にかけの白髪頭の翁こそ憐れなものなのだ。この翁の白髪頭は何と憐れなことか。しかしそれこそ昔は紅顔の美少年だったのだ。かつては王侯貴族の子弟たちと花咲く木々の下で、散る花を前に歌ったり踊ったりしていたのだ。光禄大夫の豪奢な池のほとりの台閣、その錦の帳を開いて出入りし、大将軍の楼閣の神仙の絵が描かれたところで遊んだりしていたのだ。しかし一度病に臥してからは誰も知るものもなくなり、春の行楽もいったいどこへ行けばよいのか。その麗しく細い眉もどれほど保たれようか。たちまちのうちに鶴のような白髪となって糸のように乱れることだろう。昔歌い舞った地を見ても、ただ黄昏時に小鳥が哀しげに鳴いているばかり。

※[坐]そぞろに。何とはなしに。意味もなく。 [松柏摧為薪]漢代の無名氏「古詩」に「古墓は犂(す)かれて田と為り、松柏は摧かれて薪と為る」とあるのを踏まえる。 [桑田変成海]『神仙伝』の中で、仙女麻姑(まこ)と仙人王方平(おうほうへい)が「この前お会いしたときから、東海が三度も桑田に変わってしまいましたね」と話した故事を踏まえる。ともにきわめて長い時間が経過したことを言う。 [光禄池台]漢の光禄大夫王根(おうこん)が建てた豪奢な台閣。池の中に築いたという。 [将軍楼閣画神仙]後漢の大将軍梁冀(りょうき)がやはり壮麗な邸宅を作り、壁に仙人の姿を描いたという。 [蛾眉]娥の触覚のような細い眉。美しい眉の形容。 [須臾]たちまち。 [鶴髪]鶴のような白い髪。

 

 詩題「代悲白頭翁」の「代」とは「擬」に同じく、先行作品を模擬するという意で、「悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁)という詩を模擬したものとされます。しかし先にあったであろう「悲白頭翁」という詩は現在は確認できません。日本ではこの詩は古来「白頭を悲しむ翁に代はりて」と訓じ、翁の思いを代弁した作と解されています。

 花の舞い散る洛陽の春の風景から詠い起こし、万物の移り変わりへと思いを馳せていきます。そして華やかなりし青春を送っていても、いずれは年老いてしまうことを述べており、人生のはかなさ、無常観を感じさせるものとなっています。

 とりわけ「年年歳歳 花 相ひ似たり、歳歳年年 人 同じからず」とは有名な句であり、作者劉希夷は、他の詩人からこの二句を自分のものにしたいと求められ、それを断ったがために殺されたという伝承があるほどです。その真偽はともかく、これこそ古今の名句と言えるものでしょう。

独酌―白居易

 独酌  白居易
窓外正風雪  窓外 正に風雪
擁炉開酒缸  炉を擁して 酒缸を開く
何如釣船雨  何如(いかん)ぞ 釣船の雨
篷底睡秋江  篷底 秋江に睡るに


 窓の外はいまや吹雪。その音を聞きながら炉端で酒がめのふたを開く。この楽しさは、秋の川辺で雨音を聞きながら、釣り船の篷(とま)の底で眠るのと比べてどうであろうか。


※[擁炉]炉のそばでの意。 [酒缸]酒がめ。 [何如](~と比べて)どうだろうか。 [篷]茅などを編んだもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。


 外では激しく雪が降る中、暖かい炉端で酒がめを開き、独り酒を飲んでいます。その楽しみを、「釣船の雨、篷底 秋江に睡る」(秋の川辺で雨音を聞きながら、釣り船の篷の底で眠る)ことと比べています。そもそも釣りをする人(漁夫)は隠者の象徴であり、これは隠者としての楽しみを指していると言って良いでしょう。

 白居易はどちらを良しとしているのでしょうか。

 「独酌」の詩題が示すように、やはり隠者となって釣り船の篷の底で眠るよりも、吹雪の中、独り酒を飲むことをこそ楽しみとしているのでしょう。

 

江南の春

 江南春  杜牧
千里鶯啼緑映紅   千里 鶯 啼きて 緑 紅に映ず
水村山郭酒旗風   水村 山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺   南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少楼台煙雨中   多少の楼台 煙雨の中(うち)


 千里彼方まで鶯が鳴きしきり、緑の葉が紅の花に映えわたる。水辺の村、山ぎわの村にも居酒屋の旗が風にはためいている。思えばかつて南朝の世には四百八十の寺院が栄えていた。数知れぬ多くの堂塔が今もうちけぶる煙るような雨の中に霞んでいる(かのようだ)。


※[山郭]山中の村。 [酒旗]酒屋のしるしの旗。 [南朝四百八十寺]南朝時代、特に梁代(五〇二~五五七)には仏教が盛んで、仏寺の数は都建康だけで五百を数えたという。 [多少]数知れぬ。

 

 作者杜牧は晩唐の詩人、「大杜」杜甫に対して「小杜」と称されます。その杜牧の代表作の一つです。

 最初に今現在の華やかな江南の風景を描き、そこからこの地の古に思いを馳せます。前半は色鮮やかな色彩画、後半は雨に煙る水墨画といったところでしょうか。二つの対照的な景が一首の詩の中に詠み込まれています。

 非常に数多くの仏寺があったという江南の地、最後の句の「多少の楼台 煙雨の中」とは実際に杜牧が見ていた風景なのでしょうか。その点については解釈が分かれます。杜牧が見たときにも多くの楼台があったという説、それらはすでに失われたが杜牧の眼には在りし日の風景として映っていたのだという説などがあります。

 いずれにせよその虚と実とが、彷彿として煙雨の中に混在している点にこの詩の魅力があるように思われます。

江雪―柳宗元

  江雪  柳宗元
山鳥飛絶  千山 鳥飛ぶこと絶え
万逕人蹤滅  万逕 人蹤滅す
孤舟蓑笠翁  孤舟 蓑笠の翁
独釣寒江雪  独り釣る 寒江の雪

 連なる山々には鳥の飛ぶ姿も絶え、あらゆる小径には人の足跡も消えた。一艘の小舟に蓑笠をつけた翁が乗り、寒々とした雪の降る江の中で、独り釣り糸を垂れている。

 
 雪の降りしきる中、誰もいない江で独り釣り糸を垂れる翁。まさに一幅の山水画が目に浮かぶようです。古来、釣り人は隠者のイメージをともなうもので、この詩においても、俗世間と交わりを絶った超俗の世界を描いたものとして解されることが多いようです。

 一方で、この「蓑笠の翁」を不遇な作者自身の姿ととり、絶望的な現実に対する孤独と寂寥を表したものとする見方もあります。

 この詩の制作時期については定かではありません。一般には、政治改革に失敗し、永州に左遷された時期のものとされます。永州は今の湖南省にあり、めったに雪の降らない地ですが、実は柳宗元は永州に来て二年目、元和二年(八〇七)に南方では珍しい大雪を体験しています。もしその時期であるとすれば、永州に来てまだ憂いと孤独にさいなまれていた頃、南方ではめったに見られない雪景色に感じてこの詩を作ったのかもしれません。

 しかし結局はこの詩が作られた背景は不明です。それゆえにこの翁の心境はどのようなものであったのか、そのとらえ方はおそらく詩を読む人によってさまざまに異なるものとなるでしょう。