独酌―白居易

 独酌  白居易
窓外正風雪  窓外 正に風雪
擁炉開酒缸  炉を擁して 酒缸を開く
何如釣船雨  何如(いかん)ぞ 釣船の雨
篷底睡秋江  篷底 秋江に睡るに


 窓の外はいまや吹雪。その音を聞きながら炉端で酒がめのふたを開く。この楽しさは、秋の川辺で雨音を聞きながら、釣り船の篷(とま)の底で眠るのと比べてどうであろうか。


※[擁炉]炉のそばでの意。 [酒缸]酒がめ。 [何如](~と比べて)どうだろうか。 [篷]茅などを編んだもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。


 外では激しく雪が降る中、暖かい炉端で酒がめを開き、独り酒を飲んでいます。その楽しみを、「釣船の雨、篷底 秋江に睡る」(秋の川辺で雨音を聞きながら、釣り船の篷の底で眠る)ことと比べています。そもそも釣りをする人(漁夫)は隠者の象徴であり、これは隠者としての楽しみを指していると言って良いでしょう。

 白居易はどちらを良しとしているのでしょうか。

 「独酌」の詩題が示すように、やはり隠者となって釣り船の篷の底で眠るよりも、吹雪の中、独り酒を飲むことをこそ楽しみとしているのでしょう。

 

江南の春

 江南春  杜牧
千里鶯啼緑映紅   千里 鶯 啼きて 緑 紅に映ず
水村山郭酒旗風   水村 山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺   南朝 四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少楼台煙雨中   多少の楼台 煙雨の中(うち)


 千里彼方まで鶯が鳴きしきり、緑の葉が紅の花に映えわたる。水辺の村、山ぎわの村にも居酒屋の旗が風にはためいている。思えばかつて南朝の世には四百八十の寺院が栄えていた。数知れぬ多くの堂塔が今もうちけぶる煙るような雨の中に霞んでいる(かのようだ)。


※[山郭]山中の村。 [酒旗]酒屋のしるしの旗。 [南朝四百八十寺]南朝時代、特に梁代(五〇二~五五七)には仏教が盛んで、仏寺の数は都建康だけで五百を数えたという。 [多少]数知れぬ。

 

 作者杜牧は晩唐の詩人、「大杜」杜甫に対して「小杜」と称されます。その杜牧の代表作の一つです。

 最初に今現在の華やかな江南の風景を描き、そこからこの地の古に思いを馳せます。前半は色鮮やかな色彩画、後半は雨に煙る水墨画といったところでしょうか。二つの対照的な景が一首の詩の中に詠み込まれています。

 非常に数多くの仏寺があったという江南の地、最後の句の「多少の楼台 煙雨の中」とは実際に杜牧が見ていた風景なのでしょうか。その点については解釈が分かれます。杜牧が見たときにも多くの楼台があったという説、それらはすでに失われたが杜牧の眼には在りし日の風景として映っていたのだという説などがあります。

 いずれにせよその虚と実とが、彷彿として煙雨の中に混在している点にこの詩の魅力があるように思われます。

江雪―柳宗元

  江雪  柳宗元
山鳥飛絶  千山 鳥飛ぶこと絶え
万逕人蹤滅  万逕 人蹤滅す
孤舟蓑笠翁  孤舟 蓑笠の翁
独釣寒江雪  独り釣る 寒江の雪

 連なる山々には鳥の飛ぶ姿も絶え、あらゆる小径には人の足跡も消えた。一艘の小舟に蓑笠をつけた翁が乗り、寒々とした雪の降る江の中で、独り釣り糸を垂れている。

 
 雪の降りしきる中、誰もいない江で独り釣り糸を垂れる翁。まさに一幅の山水画が目に浮かぶようです。古来、釣り人は隠者のイメージをともなうもので、この詩においても、俗世間と交わりを絶った超俗の世界を描いたものとして解されることが多いようです。

 一方で、この「蓑笠の翁」を不遇な作者自身の姿ととり、絶望的な現実に対する孤独と寂寥を表したものとする見方もあります。

 この詩の制作時期については定かではありません。一般には、政治改革に失敗し、永州に左遷された時期のものとされます。永州は今の湖南省にあり、めったに雪の降らない地ですが、実は柳宗元は永州に来て二年目、元和二年(八〇七)に南方では珍しい大雪を体験しています。もしその時期であるとすれば、永州に来てまだ憂いと孤独にさいなまれていた頃、南方ではめったに見られない雪景色に感じてこの詩を作ったのかもしれません。

 しかし結局はこの詩が作られた背景は不明です。それゆえにこの翁の心境はどのようなものであったのか、そのとらえ方はおそらく詩を読む人によってさまざまに異なるものとなるでしょう。

茅屋 秋風の破る所と為る歌

 茅屋為秋風所破歌     杜甫
    茅屋 秋風の破る所と為る歌

八月秋高風怒号    八月 秋高くして 風 怒号し
巻我屋上三重茅    我が屋上の三重の茅を巻く
茅飛度江灑江郊    茅は飛びて江を度(わた)り 江 郊に灑(そそ)
高者挂罥長林梢    高き者は長林の梢(こずえ)に挂罥(くゎいけん)
下者飄転沈塘坳    下(ひく)き者は飄転して塘坳(たうあう)に沈む
南村群童欺我老無力  南村の群童 我の老いて力無きを欺(あなど)
忍能対面為盗賊    忍(むご)くも能く対面して盗賊を為し
公然抱茅入竹去    公然と茅を抱きて竹に入りて去る
唇焦口燥呼不得    唇は焦げ 口は燥(かは)き 呼べども得ず
帰来倚杖自歎息    帰り来りて杖に倚(よ)りて自ら歎息す
俄頃風定雲墨色    俄頃 風は定まり雲は墨色
秋天漠漠向昏黒    秋天 漠漠として昏黒に向ふ
布衾多年冷似鉄    布衾 多年 冷きこと鉄に似たり
驕児悪臥踏裏裂    驕児 悪臥して裏を踏みて裂く
床床屋漏無乾処    床床 屋 漏れて 乾く処無く
雨脚如麻未断絶    雨脚 麻の如く未だ断絶せず
自経喪乱少睡眠    喪乱を経て自(よ)り睡眠少なく
長夜霑湿何由徹    長夜 霑湿(てんしつ)して何に由りてか徹せん
安得広廈千万間    安んぞ広廈の千万間なるを得て
大庇天下寒士倶歓顔  大いに天下の寒士を庇(おほ)ひて倶に顔を歓ばせん
風雨不動安如山    風雨にも動かず 安きこと山の如し
嗚呼         嗚呼(ああ)
何時眼前突兀見此屋  何れの時にか眼前に突兀(とつごつ)として此の屋を見なば
吾廬独破受凍死亦足  吾が廬 独り破れて凍死を受くとも亦た足れり


 八月、秋の空は高く風はうなるように吹き荒れ、我が家の屋根の三重に葺いた茅を巻き上げた。茅は飛ばされて川を越え、川のほとりに散らばり、高く舞い上がったものは高い林の梢にかかり、低く舞ったものはひるがえって窪地の水たまりに沈んだ。南村の悪童たちは私が老いて非力なのをあなどり、むごくも面と向かって盗みを働き、堂々と茅を抱えて竹林の中へと逃げていく。唇やのどはカラカラにかわき呼び止めることもできず、家に帰って杖に寄りかかりため息をついた。しばらくして風はおさまり雲は墨を流したように黒く、秋の空は薄暗く夕暮れ迫っている。長年使い込んだ粗末な布団は鉄のように冷たく、その上やんちゃな子供は寝相が悪く裏地を踏み破ってしまった。どの寝台も屋根の雨漏りで乾いたところは無く、雨脚は麻のように途切れることなく降り続いている。戦乱になってからというものぐっすりと眠れることも少ないのに、この秋の夜長にじっとりと濡れたまま、どうやって朝を待ったらよいのだろうか。どうにかして千間や万間もある大きな家を得て、大いに天下の貧しい人々をその中に収め、一緒に顔をほころばせたいものだ。風雨にあっても山のようにびくともしない家、ああ、いつの日か眼の前にこのような家が高くそびえ立つのを見たならば、我が家だけが壊れて凍え死にしようとも、私はそれで満足である。


※[挂罥]ひっかかる。 [塘坳]水の溜まった窪地。 [俄頃]しばらくして。 [漠漠]薄暗く広がるさま。 [布衾]粗末な布団。 [驕児]やんちゃな子供。自分の子をいう。 [床]寝台。[霑湿]じっとりと濡れる。 [広廈]大きな家。 [寒士]不遇な士。あるいは貧しい人々。 [突兀]高くそびえるさま。

 

 秋は台風の季節です。そこで思い出されるのがこの杜甫の詩です。

 果たしてこれが今で言う台風であるかどうかは定かでありませんが、秋に吹く大風の激しさを詠っています。たいへんな被害を受けた杜甫ですが、そのような状況にありながら、多くの「寒士」が無事でさえいれば、自分はどうなってもかまわないと結んでいます。
 天下に対する杜甫の思いがひしひしと伝わってくると思います。

 

秋風の辞

 

 秋風辞 漢武帝

秋風起兮白雲飛   秋風 起こりて 白雲 飛び
草木黄落兮雁南帰  草木 黄落して 雁 南に帰る
蘭有秀兮菊有芳   蘭に秀でたる有り 菊に芳しき有り
懐佳人兮不能忘   佳人を懐(おも)ひて忘るる能はず
泛楼舡兮済汾河   楼舡を泛(うか)べて 汾河(ふんが)を済(わた)
中流兮揚素波   中 流に横(よこた)はりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮発棹歌   簫鼓 鳴りて 棹歌を発し
歓楽極兮哀情多   歓楽 極まりて 哀情 多し
少壮幾時兮奈老何  少壮 幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん


 秋風が吹き起こり白雲が飛び、草木は黄ばみ枯れ落ちて雁は南に飛んでいく。蘭は美しい花をつけ、菊は芳しい香を漂わせている。そのような佳人のことを思ってとても忘れることはできない。屋形船を浮かべて汾河を渡り、河の中ほどに舟を横たえると白い波が揚がる。簫や太鼓が鳴り響き舟歌が歌われる。しかし歓楽が極まってくると哀しみの情が湧き起こってくる。若く元気な時がどれだけあるというのか、やがて老いてしまうのはもうどうしようもない。


※[黄落]黄ばみ枯れ落ちる。 [蘭・菊]佳人に喩える。 [秀]美しい花。 [佳人]美女。あるいは女神、また賢臣を指す。 [楼舡]高いやぐらのある舟。屋形船。 [汾河]山西省を流れ黄河に注ぐ。 [簫]笛の一種。 [棹歌]舟歌


 漢武帝(在位前141~前87)とは漢の第7代(あるいは呂公の立てた少帝弘、少帝恭を除外して5代とする場合もある)皇帝劉徹を指します。四方に遠征軍を派遣して領土を拡大し、また内においては儒学を尊重し、文化的にもこの時代は隆盛を極めました。その治世は54年にも及び、漢の最盛期を築き上げた皇帝です。

 この詩は汾河において祖先をまつる祭祀を行い、そこで群臣と宴会を催したときの作とされています。

 当時は漢の国威が最高潮に達したときであり、その満ち足りた思いを詠い上げますが、さらには迫り来る老いを悲しむものとなっています。武帝は晩年に老いて死ぬことを恐れ、不老不死の仙術を求めていたと言います。

 この詩における秋風はもの悲しさを感じさせるものであますが、以降この秋風のイメージが継承されるようになります。