秋風の辞

 

 秋風辞 漢武帝

秋風起兮白雲飛   秋風 起こりて 白雲 飛び
草木黄落兮雁南帰  草木 黄落して 雁 南に帰る
蘭有秀兮菊有芳   蘭に秀でたる有り 菊に芳しき有り
懐佳人兮不能忘   佳人を懐(おも)ひて忘るる能はず
泛楼舡兮済汾河   楼舡を泛(うか)べて 汾河(ふんが)を済(わた)
中流兮揚素波   中 流に横(よこた)はりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮発棹歌   簫鼓 鳴りて 棹歌を発し
歓楽極兮哀情多   歓楽 極まりて 哀情 多し
少壮幾時兮奈老何  少壮 幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん


 秋風が吹き起こり白雲が飛び、草木は黄ばみ枯れ落ちて雁は南に飛んでいく。蘭は美しい花をつけ、菊は芳しい香を漂わせている。そのような佳人のことを思ってとても忘れることはできない。屋形船を浮かべて汾河を渡り、河の中ほどに舟を横たえると白い波が揚がる。簫や太鼓が鳴り響き舟歌が歌われる。しかし歓楽が極まってくると哀しみの情が湧き起こってくる。若く元気な時がどれだけあるというのか、やがて老いてしまうのはもうどうしようもない。


※[黄落]黄ばみ枯れ落ちる。 [蘭・菊]佳人に喩える。 [秀]美しい花。 [佳人]美女。あるいは女神、また賢臣を指す。 [楼舡]高いやぐらのある舟。屋形船。 [汾河]山西省を流れ黄河に注ぐ。 [簫]笛の一種。 [棹歌]舟歌


 漢武帝(在位前141~前87)とは漢の第7代(あるいは呂公の立てた少帝弘、少帝恭を除外して5代とする場合もある)皇帝劉徹を指します。四方に遠征軍を派遣して領土を拡大し、また内においては儒学を尊重し、文化的にもこの時代は隆盛を極めました。その治世は54年にも及び、漢の最盛期を築き上げた皇帝です。

 この詩は汾河において祖先をまつる祭祀を行い、そこで群臣と宴会を催したときの作とされています。

 当時は漢の国威が最高潮に達したときであり、その満ち足りた思いを詠い上げますが、さらには迫り来る老いを悲しむものとなっています。武帝は晩年に老いて死ぬことを恐れ、不老不死の仙術を求めていたと言います。

 この詩における秋風はもの悲しさを感じさせるものであますが、以降この秋風のイメージが継承されるようになります。

送別―王維

 

 送別  王維
下馬飲君酒  馬を下り 君に酒を飲ましむ
問君何所之  君に問ふ 何の之(ゆ)く所ぞ
君言不得意  君は言ふ 意を得ず
帰臥南山陲  南山の陲(ほとり)に帰臥(きが)せんと
但去莫復問  但だ去れ 復た問ふこと莫し
白雲無尽時  白雲 尽くる時無からん


 馬を下りて君に一杯の酒を勧める。そして君に問う。「どこへ行くのか。」君は言う。「今の世の中どうも思うようにならぬから、南山のほとりに帰って寝ていようと思う。」「ならば行きたまえ、もう何も尋ねまい。君が行くところは白雲が尽きることはないだろう。」


※[下馬飲君酒]途中まで見送りに来て、別れに際して酒を酌み交わしている。 [不得意]世の中が思うようにならない。しばしば良い官職に就けないことを言う。 [帰臥]隠居する意。 

 

 王維の有名な送別詩です。

 意を得ることができず、山中へと向かう友人を見送るものですが、果たして本当に実在の友人を見送ったのでしょうか。あるいは送別の形をとった自問自答の作という説もあります。

 そして印象的なのは最後の句「白雲 尽くる時無からん」でしょう。古来、雲は山中から生ずるとされ、山の奥深くを意味するものでもあります。また王維はしばしば白雲を高尚さ、隠遁の象徴として用いています。

 すなわち最後の句は隠遁のため山中へと向かう相手(あるいは自分自身)の高潔さをこのように詠ったものと思われます。

 

一を聞いて二を知る

 

論語』公冶長
子 子貢に謂ひて曰く、「女(なんじ)と回と孰(いず)れか愈(まさ)れる」と。対(こた)へて曰く、「賜(し)や何ぞ敢へて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知るのみ」と。子曰く、「如(し)かざるなり。吾と女(なんじ)と如かざるなり」と。

 
孔子が弟子の子貢に言った。「おまえと顔回とではどちらがすぐれているかね?」子貢は答えた。「私は顔回にはとうていかないません。顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るだけです。」孔子は言った。「その通り及ばない。私もおまえと同じく及ばないのだ。」)

  

 「一を聞いて十を知る」の語源となった話です。

 ただここで興味深いのはむしろ子貢の「私は一を聞いて二を知るだけ」という台詞ではないでしょうか。ここではおそらく「一を聞いて十を知る」顔回に対して、謙遜の意味で用いているのだと思いますが、これも決して容易いことではないと思います。世間一般では「一を聞いて一を知る」ことすら満足にできない人も多いのではないでしょうか。

 一を聞いて十を知り、孔子でさえ及ばないと言わしめるほどの顔回はともかく、せめて一を聞いて二を知る子貢のような人を目標にしたいものです。

夏昼偶作

 夏昼偶作  柳宗元
南州溽暑酔如酒   南州 の溽暑(じょくしょ) 酔ひて酒の如し
隠几熟眠開北牖   几(き)に隠(よ)りて熟眠 北牖(ほくゆう)を開く
日午独覚無余声   日午 独り覚めて 余声無し
山童隔竹敲茶臼   山童 竹を隔てて 茶臼(ちゃきゅう)を敲(たた)


 南国のあまりの蒸し暑さに、身体は酒に酔ったように火照っている。北の窓を開け、肘掛けに寄りかかってぐっすりと眠る。真昼頃に、ふと独り目覚めるが、何の物音もない。下男が、竹林の向こうで茶臼をたたく音だけが聞こえてくる。

※[溽暑]夏の蒸し暑さ。 [几]脇息。肘掛け。 [敲茶臼]宋・陸羽『茶経』によると、摘み取った茶葉はまず蒸してから臼に入れて杵でつき、その後に鉄製の型に入れて固め、乾燥させて保存したという。


 夏の昼間の様子を詠っています。
 「南州」とは文字通り、南方の州で、おそらく柳宗元が左遷された永州、または柳州を指すものと思われます。南方の夏の蒸し暑さを「溽暑」という語で表し、身体も熱く火照っているようです。このような暑い日は何もできないのでしょう、窓を開けて肘掛けによりかかってのんびり昼寝をしています。そしてふと目覚めても、聞こえるのは竹林の向こうから茶臼をたたく音だけ。非常にのどかな日々の様子が詠われています。

 この「几に隠りて熟眠 北牖を開く」という句は、夏の昼下がりの昼寝の様子を詠うものとして有名になり、後世、人口に膾炙していきます。

香山避暑

 

  香山避暑  白居易

六月灘声如猛雨   六月 灘声(たんせい) 猛雨の如し

香山楼北暢師房   香山の楼北 暢師(ちょうし)の房

夜深起憑闌干立   夜深くして 起ちて闌干(らんかん)に憑りて立てば

満耳潺湲満面涼   耳に満つる潺湲(せんかん) 面に満つる涼

 

 夏六月、岩にぶつかる早瀬の音は、まるで激しい雨のよう。ここは香山寺の高楼の北、文暢禅師のお部屋。夜も更けたころ、起き上がって欄干に寄りかかって立っていると、耳には清流の水音が満ちあふれ、顔には涼しさが満ちわたる。

 

※[六月]旧暦の六月は、新暦の六月下旬から八月上旬、盛夏にあたる。[灘声]岩にぶつかる早瀬の音。 [香山]寺の名。香山寺。 [暢師]香山寺の高僧の一人、文暢禅師(もんちょうぜんじ)をいう。 [闌干]手すり。欄干。 [潺湲]水の流れる音。

 

 ここしばらく厳しい暑さが続いていますが、中国の詩人たちは、夏場にはしばしば山や渓谷などに涼を求め、避暑に出かけます。

 この詩もまさにその避暑の詩です。山深き寺の夜、そこで聞こえる早瀬の音、顔に感じる水飛沫、見事に夏の「涼」を描き上げている詩ではないかと思います。