一片の氷心 玉壺にあり

 芙蓉楼送辛漸  芙蓉楼にて辛漸(しんぜん)を送る
                王昌齢
寒雨連江夜入呉   寒雨 江に連なりて 夜 呉に入る
平明送客楚山孤   平明 客を送れば 楚山 孤なり
洛陽親友如相問   洛陽の親友 如(も)し相ひ問はば
一片氷心在玉壺   一片の氷心 玉壺(ぎょくこ)に在り

 
 冷たい雨が長江に激しく降り注ぐなか、君とともに呉にやってきた。明け方に君を送り出すと、行く手には楚山がぽつんと姿を見せている。もし洛陽の親友が私のことを尋ねたなら、こう答えて欲しい。一片の氷が、白玉の壺の中にあるように我が心は清く澄みきっているのだと。


※[芙蓉楼]潤州丹陽(今の江蘇省鎮江市)にあった楼閣。 [寒雨]冷たい雨。主に晩秋以降の雨をいうことが多い。 [平明]明け方。 [一片]①ひとかけら。②一杯の。 [氷心]氷のように澄みきった心。 [玉壺]白玉で作られた清らかな壺。

 

 親しい人を見送る送別詩は、唐詩の主要なジャンルですが、この詩は先に挙げた李白の「黄鶴楼送孟浩然之広陵」と並び、名詩として知られています。
 雨の降りしきる薄暗い風景、それは友人との別れの辛さ、寂しさを表しており、そのような風景の中で友人と別れた後、ぽつんとそびえる楚山は、自分の姿を重ね合わせたものです。

 しかし、もし洛陽の友人たちが私のことを尋ねたなら、王昌齢は「一片の氷心 玉壺に在り」と答えてくれと伝えます。これは自分の心がいかに澄みきって清らかであるかを示す句ですが、そこには洛陽の友人、そして今別れゆく辛漸を心配させまいとする、彼の思いやりが込められているのではないでしょうか。

 この最後の句の清らかさは読む人に強い印象を与え、そのためほぼ同時代の頃から、広く人口に膾炙していきました。

南史演義 巻3-4

 しかし楊佺期(ようせんき)が江陵に至ると、殷仲堪(いんちゅうかん)のもとには援軍をねぎらう酒食などもなく、ただ麦を軍に支給しているだけであった。楊佺期は大いに怒って言った。「殷侯はわしを誤らせた。今ここで敗れるだろう!」そのまま仲堪の方を見ず、にわかに甲冑を着て馬に乗り、城から討って出た。

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南史演義 巻3-3

 この時、殷道護(いんどうご)、桓昇(かんしょう)の二子は将台の上に座り、瓊玉(けいぎょく)の絶世なる容貌と優れた武芸に魂も奪われ、すぐにでも華燭の典を結びたいと切望していた。やがて瓊玉は台に上がり席についたが、風流なるその姿にますます心を動かされ、彼らはすっかり見とれていた。楊佺期(ようせんき)は二子を顧みて言った。「賢君らはみな将家の子であれば、定めて武芸に通じていよう。老夫(わし)に少し見せてもらえないか?」

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父母の年は

 『論語』里仁篇

子曰く、「父母の年は、知らざるべからざるなり。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼(おそ)る」と。

孔子は言われた、「父母の年は、知っておくべきだ。一つにはその長寿を喜び、一つには年老いたことを心配するのだ」と。

 若い時には全く考えることはありませんが、ある程度年を取ってくると、ふと両親が年老いたことに気付く時があります。

 そしてその年齢を改めて知って愕然とすることもあるでしょう。

 「親孝行したい時に親は無し」

 もうお盆になりますが、できる時にはなるべく親に顔を見せておきたいと思います。

南史演義 巻3-2

 ある日、殷道護(いんどうご)と桓昇(かんしょう)はともに襄陽(じょうよう)にやってきて、それぞれ宿舎に入った。二人はもともと知り合いであり、翌日は馬を並べて軍府を訪ねた。殷は桓に言った。「我らと君らとはともに中原に鹿を逐っているが、その鹿は誰の手に帰するだろうか?」桓もまた殷に言った。「楊(やなぎ)には美しい花が咲いているが、その花は誰の家に落ちるだろうか?」二人とも馬上で大笑した。

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