南史演義 巻3-3

 この時、殷道護(いんどうご)、桓昇(かんしょう)の二子は将台の上に座り、瓊玉(けいぎょく)の絶世なる容貌と優れた武芸に魂も奪われ、すぐにでも華燭の典を結びたいと切望していた。やがて瓊玉は台に上がり席についたが、風流なるその姿にますます心を動かされ、彼らはすっかり見とれていた。楊佺期(ようせんき)は二子を顧みて言った。「賢君らはみな将家の子であれば、定めて武芸に通じていよう。老夫(わし)に少し見せてもらえないか?」

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父母の年は

 『論語』里仁篇

子曰く、「父母の年は、知らざるべからざるなり。一には則ち以て喜び、一には則ち以て懼(おそ)る」と。

孔子は言われた、「父母の年は、知っておくべきだ。一つにはその長寿を喜び、一つには年老いたことを心配するのだ」と。

 若い時には全く考えることはありませんが、ある程度年を取ってくると、ふと両親が年老いたことに気付く時があります。

 そしてその年齢を改めて知って愕然とすることもあるでしょう。

 「親孝行したい時に親は無し」

 もうお盆になりますが、できる時にはなるべく親に顔を見せておきたいと思います。

南史演義 巻3-2

 ある日、殷道護(いんどうご)と桓昇(かんしょう)はともに襄陽(じょうよう)にやってきて、それぞれ宿舎に入った。二人はもともと知り合いであり、翌日は馬を並べて軍府を訪ねた。殷は桓に言った。「我らと君らとはともに中原に鹿を逐っているが、その鹿は誰の手に帰するだろうか?」桓もまた殷に言った。「楊(やなぎ)には美しい花が咲いているが、その花は誰の家に落ちるだろうか?」二人とも馬上で大笑した。

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南史演義 巻3-1

第三巻
 楊佺期 武を演じて婚を招き 桓敬道 師を興して境を拓く

 

 桓修(かんしゅう)は司馬元顕(しばげんけん)に計を進めて言った。「西府の殷仲堪(いんちゅうかん)、桓玄(かんげん)らは、もっぱら北府の王恭(おうきょう)を頼みとしておりましたが、王恭が破滅したことで、西府軍は必ず恐れているでしょう。桓玄と楊佺期(ようせんき)には、報復の心があるわけではなく、ただ節鉞 (せつえつ)〔軍事統帥権〕を求め、お互いそれによって他を制しようとしているだけです。もし利をもってこれを誘えば、二人は必ず内心喜び、矛を逆しまにして殷仲堪に向かっていくことと存じます。」

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関羽と曹操

 以前、関羽曹操の関係について少し述べましたが、『三国志演義』においてこの二人の関係(因縁と言って良いかもしれません)は一つの重要な要素です。

 関羽曹操が初めて会ったのは、第5回です。

 漢末の混乱に乗じて権力を握り、都で横暴の限りをつくす董卓の軍と、それを討伐しようとする曹操袁紹ら十八諸侯の連合軍が汜水関で激突します。その際、諸侯軍がさんざんに苦しめられた董卓軍の勇将華雄を、一騎打ちで見事討ち取ったのが関羽です。しかし関羽が出陣する前に、袁紹ら諸侯はその身分が低いことで侮り、一騎打ちに行かせることを拒みます。その中で唯一、曹操だけが関羽の堂々たる姿を見て、彼を送り出したのです。
 地位や身分にこだわらず、その才のみを重視する曹操の姿勢が見て取れますが、おそらくこの時、曹操関羽に惚れ込んだのではないでしょうか。

 さてその後、曹操関羽が深く関わるのは以前述べた「関羽千里行」の場面です。

 この場面で、関羽曹操に厚遇されながらも、劉備に対する忠節を忘れぬ義の人としてのイメージが決定づけられます。一方の曹操も、関羽をそのまま劉備のもとに行かせるという度量を示します。

 そしてこの時のことが、後に大きな影響を及ぼします。

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