南史演義 巻3-1

第三巻
 楊佺期 武を演じて婚を招き 桓敬道 師を興して境を拓く

 

 桓修(かんしゅう)は司馬元顕(しばげんけん)に計を進めて言った。「西府の殷仲堪(いんちゅうかん)、桓玄(かんげん)らは、もっぱら北府の王恭(おうきょう)を頼みとしておりましたが、王恭が破滅したことで、西府軍は必ず恐れているでしょう。桓玄と楊佺期(ようせんき)には、報復の心があるわけではなく、ただ節鉞 (せつえつ)〔軍事統帥権〕を求め、お互いそれによって他を制しようとしているだけです。もし利をもってこれを誘えば、二人は必ず内心喜び、矛を逆しまにして殷仲堪に向かっていくことと存じます。」

続きを読む

関羽と曹操

 以前、関羽曹操の関係について少し述べましたが、『三国志演義』においてこの二人の関係(因縁と言って良いかもしれません)は一つの重要な要素です。

 関羽曹操が初めて会ったのは、第5回です。

 漢末の混乱に乗じて権力を握り、都で横暴の限りをつくす董卓の軍と、それを討伐しようとする曹操袁紹ら十八諸侯の連合軍が汜水関で激突します。その際、諸侯軍がさんざんに苦しめられた董卓軍の勇将華雄を、一騎打ちで見事討ち取ったのが関羽です。しかし関羽が出陣する前に、袁紹ら諸侯はその身分が低いことで侮り、一騎打ちに行かせることを拒みます。その中で唯一、曹操だけが関羽の堂々たる姿を見て、彼を送り出したのです。
 地位や身分にこだわらず、その才のみを重視する曹操の姿勢が見て取れますが、おそらくこの時、曹操関羽に惚れ込んだのではないでしょうか。

 さてその後、曹操関羽が深く関わるのは以前述べた「関羽千里行」の場面です。

 この場面で、関羽曹操に厚遇されながらも、劉備に対する忠節を忘れぬ義の人としてのイメージが決定づけられます。一方の曹操も、関羽をそのまま劉備のもとに行かせるという度量を示します。

 そしてこの時のことが、後に大きな影響を及ぼします。

続きを読む

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る

 黄鶴楼送孟浩然之広陵
   黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之(ゆ)くを送る
                   李白
故人西辞黄鶴楼  故人 西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月下揚州  煙花 三月 揚州に下る
孤帆遠影碧空尽  孤帆(こはん)の遠影 碧空に尽き
唯見長江天際流  唯だ見る 長江の天際に流るるを


 親しい友は西のかた黄鶴楼を去り、花がすみ立ちこめる三月に揚州へと下っていく。遠くに進む一艘の帆影は青い空の彼方に見えなくなり、ただ長江が天の果てへと流れていくのを見るばかり。


※[黄鶴楼]武昌の西、長江を見下ろす高台にあった楼閣。 [広陵]揚州に同じ。今の江蘇省揚州。 [故人]友人。孟浩然を指す。 [煙花]花がすみ。咲き誇った花が遠くから霞のように見えること。 [孤帆]一艘の舟。


 これは送別の詩として特に有名な作品です。
 「春暁」の詩で有名な孟浩然は、李白が非常に敬愛していた詩人の一人です。その孟浩然が遠く広陵に行くのを見送る李白の思いとはどのようなものであったのでしょうか。
 この当時の旅とは今のそれと異なり、非常に危険なものであり、一度別れると次にいつ会えるか分からない、あるいは二度と会えないかも知れないというものでした。だからこそ、遠く去っていく舟を消えるまで見送り続けている様子を詠っているのです。

 また最後の長江が天の果てに流れていくという描写、そこには中国の川に対する考え方も見受けられます。古くは『論語』の中で、孔子が、「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」と嘆いたように、川の流れは留まることなく流れ続けるものであり、それは時の流れ、人の一生と同じようなものだという意識があります。

 過ぎていく時は戻ることない。そして今別れる孟浩然とももはや会うことは無いかも知れない。そういった寂しさがそこに込められているように思われます。

 

政は正なり

 今から2500年ほど前、中国は春秋・戦国時代という戦乱のただ中にありました。そのような社会情勢にあって、生きるとは何か、国家とはどうあるべきか、といったことなどを考えるさまざまな学問が起こってきます。そしてその結果、中国は諸子百家の時代を迎えます。

  諸子百家の中で最大の学派となったのは儒家です。

  孔子を始祖とするその学派は漢代には国学とされ、以降、中国のみならず朝鮮・日本においても非常に長きにわたって学問の中心とされてきました。そしてそれは現代にも強く根付いています。その孔子の言行をまとめたものが『論語』です。

 

 ということで『論語』の話もこれからは少しずつ載せていきたいと思います。

 

 『論語』子路篇

子曰く、「其の身正しければ、令せざれども行はれ、其の身正しからざれば、令すと雖も従はず」と。


孔子は言われた、「自分の身が正しければ、命令しなくとも行われるが、自分の身が正しくなければ、命令したところで従わない」と。)

 上に立つ者の心構えをいう言葉です。上に立つ人間が正しいことを行いさえすれば、何も言わなくとも下はそれにならい、従うはずだといいます。逆に上に立つ人間が正しくなければ、いくら言っても下の者は従わないということです。

 

 これに関連してもう一つ。

論語』顔淵篇

季康子 政を孔子に問ふ。孔子(こた)へて曰く、「政は正なり。子 帥(ひき)ゐて正しければ、孰(たれ)か敢て正からざらんや」と。


(季康子が政治について孔子に尋ねた。孔子は答えて言われた、「政とは正である。あなたが率先して正しいことをすれば、誰が正しくないことをするだろうか」と。)

 この「政は正なり」という言葉に、孔子の考える政治のあり方というものがよく表れているでしょう。

 

鸛鵲楼に登る

 登鸛鵲楼  鸛鵲楼(かんじゃくろう)に登る
            王之渙(おうしかん)

白日依山尽   白日 山に依(よ)りて尽き
黄河入海流   黄河 海に入りて流る

欲窮千里目   千里の目を窮めんと欲し
更上一層楼   更に上る 一層の楼

 白日は西の山際にかかって隠れようとしている。黄河は遥か遠く東の海に流れ込んでいく。私は千里の果てまで見渡そうと、さらに一層上の階に上ってきたのだ。

※[鸛鵲楼]山西省永済県にあった楼閣。「鸛雀楼」とも書く。「鸛雀」は水鳥の一種。コウノトリ。 [目]眺め。眺望。 [一層]一階。

 この詩の作者王之渙(六八八~七四二)は、若い頃から詩名があり、高適、王昌齢らと交流があった詩人です。ただし、その詩の大半は失われ、現在は六首が残るのみです。それほど著名な人物ではありませんが、この詩によって名が残った人と言えるでしょう。 

 これは鸛鵲楼から眺めた雄大な風景を詠った詩です。一、二句の解釈については諸説ありますが、特に第二句の、黄河が海へと流れ込むというのは、東の天の果ての風景と言えます。地理的に考えて、鸛鵲楼から実際に海が見えることはありませんが、詩人の目にはその風景が浮かんでいたのでしょう。とすればその対句にあたる第一句も、反対の西の天の果てを描いたものと言えるでしょう。

 すなわち詩人の目には東西の天の果てが見えているにもかかわらず、さらに一層上にあがってさらにその先を見ようとしているのです。その心境はどのようなものか、そこに作者の思いは描かれていません。これは読む人の想像に任せているものですが、それが一層この詩を味わい深いものとしているのでしょう。